文房四宝1   ◆◇◆HOMEにもどる


筆(1)
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 今回は、「弘法(こうほう)、筆を選ぶ。」という話です。
 さて、広く世間で言われている有名なことわざに「弘法、筆を選ばず。」があります。弘法は弘法大師(こうぼうだいし)、つまり空海(774〜835)であることは皆さんご承知のとおりです。名人は道具に関係なく立派な仕事をするものだ……という意味に使われていますが、実際に空海の文章をよく調べてみると、どうもそうではないらしいのです。
 『性霊集(しょうりょうしゅう)』という書物は、空海の弟子である真済(しんさい)が師の空海の文章を集めたものです。その巻四に「良工先利其刀、能書必用好筆。刻鏤随用改刀、臨池逐字変筆。」という文章があります。読み方は「良工は先ず其(そ)の刀(とう)を利(り)し、能書(のうしょ)は必ず好筆(こうひつ)を用ふ。刻鏤(こくろう)は用に随(したが)ひて刀を改め、臨池(りんち)は字を逐(お)ひて筆を変ふ。」です。文中にある「能書」は字の上手な人をいいました。「名工は彫刻刀を上手に使い、能書家は品質の良い筆を使う。そして名工は彫刻をする物にしたがって刀をかえ、能書家は筆を執るにあたって題字や細楷などその用途にしたがって筆をかえるものである。」まあ、こんな意味でしょう。
 また、空海は遣唐使として中国に留学しましたが、仏教の勉強のほかに、書も学びました。その証拠として空海は、帰国後、当時の中国で流行していた「飛白( ひはく)」という書体を残しています。この「飛白」は、とても普通の筆では書けません。実際に空海の飛白書を見てみますと「はけ」のようなもので書いています。さしもの工海といえども「弘法、筆を選ぶ。」であったことは事実のようです。
 さらに『狸毛筆奉献表(りもうひつほうけんひょう)』という文章には、空海が嵯峨天皇(さがてんのう)にたいして筆四本を献上したことが書かれています。「狸毛筆四管(りもうひつしかん)」と題した下に細字で「真書(しんしょ)一・行書一・草書一・写書(しゃしょ)一」と付記され、四本の筆を具体的に楷書用・行書用・草書用・写経用として用途によって分けられて献上されています。内容を読みますと、空海自身が筆の造り方を清川(せいせん)という人に指導して作らせたことが述べられていることからも、空海がいかに筆について関心を持っていたかが知られます。
 空海は書を能(よ)くしたことでも有名ですが、日本の書の歴史の中では嵯峨天皇(786〜842)、橘逸勢(たちばなのはやなり)(?〜842)とを合わせて三筆(さんぴつ)と称して、能書家として尊ばれました。三人とも、平安時代の初期に活躍した人達です。

*空海、平安時代の僧。わが国の真言宗の開祖。八〇四年唐の長安に学び、八〇六年帰朝、八一六年高野山(こうやさん)に金剛峯寺(ごんごうぶじ)を創建。八二八年京都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立した。著書に『性霊集』のほかに『三教指帰(さんきょうしき)』『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』『文筆眼心抄(ぶんぴつがんしんしょう)』『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』『篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)』などがある。
*『性霊集』、空海が作った詩賦・表文・碑銘などを真済が編集した書物。全十巻のうち八・九・十巻は散逸した。

初出/『菅城』563号(平成5年8月)
再出/『拓美』354号(平成7年5月)
Web版/平成18年2月再編・加筆