中国書道文化史(9)   ◆◇◆HOMEにもどる


書と個性/宋・元の書


第15章 宋
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第1節 宋の書相
 宋は、歴史的には北宋(960〜1127)と、北方の移民族の女真族の進入によって首都を臨安(いまの浙江省杭州)に移した南宋(1127〜1279)に分かれる。
 書は、唐の改革派の影響を受けるが、これを継承して独自の書風をなしたのは蔡襄(1012〜1067)・蘇軾(1036〜1101)・黄庭堅(1045〜1105)・米芾(1051〜1107)である。書道史においては―宋の四大家―とよばれる。これら四大家は―蘇・黄・米・蔡―と略されるが、蔡襄は蔡京とするものもある。とくに蘇・黄・米の三人は、後世に多くの追随者を出したことは、その書の魅力を裏付けている。

第2節 『淳化閣帖』
 宋の淳化三年(992)には『淳化閣帖』が編集され、ふつうには『閣帖』と呼ばれた。最初の書道全集というべきものである。
 こんにちの書道全集は甲骨文・金文からはじまり清の呉昌碩あたりまでが網羅されたものだが、『淳化閣帖』一〇巻は歴代の皇帝や名臣の書が第一巻から第五巻の半分を占め、のこり第六巻から第一〇巻の半分が王羲之と王献之の書であった。今のものと比べるとだいぶ構成が異なるが、この『淳化閣帖』が、すべての書の軌範として必修の手習い教材とされた。歴代の名人の臨書例のおおくがこの『淳化閣帖』によるものであることは、その証明といってよい。淳化は宋の二代皇帝高宗の年号である。

第3節 蘇軾・黄庭堅・米芾
 蘇軾(字―子瞻、号―東坡)は、若くして高級官僚となり旧法党に属した。北宋は、政権が新法党(改革派)と旧法党(保守派)にわかれたために、新旧両党が政権交代を繰り返した。蘇軾もそのたびに英達と左遷を繰り返した。文学とくに文章家として著名であり―唐宋八家―のひとりに挙げられる。書は、四七歳左遷の地で作った詩を行書でかいた『黄州寒食詩巻』はとくに代表作とされる。
 黄庭堅(字―魯直、号―山谷)は、若くして高級官僚となり旧法党に属した。政争のたびに蘇軾と同様に英達と左遷を繰り返した。文学では詩人として著名で江西詩派の祖とされる。書は―自得―といい、人格の完成による超軼絶塵の書を理想とした。草書でかかれた『李太白憶旧遊詩巻』はとくに代表作とされる。
 米芾(初名―黻、字―元章、号―鹿門)は、母親が皇后の旧知という縁故で役人となり、徽宗のときに書画学博士となって帝に仕えた。画を善くして、米点山水とよばれる山水画法を創始した。書は、終生にわたり晋人とくに二王の名跡を習って並ぶものなく、行書でかかれた『苕渓詩巻』『蜀素帖』は代表作とされる。

第4節 徽宗皇帝
 徽宗皇帝(趙佶 1082〜1135)は、その北宋のわずかに二五年間を皇帝に在位(1101〜25)したにすぎないが、徽宗一代でそれまで蓄積した国力のすべてを費やして文化事業を振興したといってよい。文人皇帝と呼ばれた徽宗であったが、民衆にとっては浪費家の為政者でしかなかった。徽宗のもとで空前絶後の文化行政が施行されたが、その結実が歴代の書画の収蔵目録である『宣和書譜』『宣和画譜』、古器物の収蔵目録である『宣和博古図』、印の収蔵目録である『宣和印譜』として編集され、のちの世まで書画研究の出発点になった。もうひとつは文化行政の長という執行者にとどまらず徽宗自身も詩書画の三絶を極めた芸術家であった。とくに徽宗の書く特長ある楷書は―痩金体―と呼ばれて、一生涯を文人修業に明けくれた皇帝の威風を示している。
 徽宗の書は、はじめ薛曜を学んで独特の痩金体にいたったとされる。薛曜は、生卒がはっきりしない人だが、だいたい八世紀前後の頃の人。その書は、褚遂良の影響をつよく受けたものである。


参考7 硯について
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第1節 硯の起源
 硯の訓である―すずり―は、硯の古称の「墨磨り」(すみすり)が転じたものである。
 また硯は、研に通じて、「研蓋」「硯蓋」(すずりぶた)・「研匣」「硯匣」(すずりばこ)・「研室」「硯室」(すずりばこ)・「研席」「硯席」(学問をする席)・「研田」「硯田」(文筆で生活する喩)・「研屏」「硯屏」(すずりの前にたてる衝立、文房飾り)・「研北」「硯北」(宛名の脇付)など同じ意味に使われる。
 さて硯、研ともに『説文解字』に載せるが、甲骨文・金文・篆書・隷書に用例はなく、比較的おくれて生れた文字と考えられる。『説文解字』には、硯は「石の滑らかなるものなり。」とし、研は「磨ぐなり。」として、墨を磨るための道具とは書いていない。墨を磨るための道具として文献に記述があるのは劉煕(生卒不詳)の『釈名』(釈書契)で、「硯は、研である。墨をすって水濡らすことである。」とある。劉煕は後漢に活躍した人であることから、一世紀から三世紀の頃には硯(研)は―すずり―として使われていたと思われる。

第2節 硯の遺品
 出土品としての硯は、一九七五年に発見された秦の硯(湖北省雲夢県睡虎地秦墓出土 秦始皇三〇年 前217 推定)が最古のものである。ついで一九七三年に発見された前漢の硯(湖北省江陵県鳳凰山漢墓出土 初元一三年 前167 推定)があり、実物ではないものの壁画に後漢の硯の様子(湖北省望都県望都漢墓出土 後漢―22〜220―中期 推定)が描かれている。前述の『釈名』の記載も、このころの様子を述べたものであろう。漢の硯には、この他の出土品として石硯・円形の三足石硯・漆硯などがある。円形の三足石硯は壁画と同じ姿をしている。漆硯は、墨をする面に石粉を混ぜた漆を塗ったもので、一九六九年に出土した怪獣硯は宝石を象嵌した珍しいものである。
 魏晋南北朝の頃は、焼きものの硯が多く、青磁や陶器でつくられた陶瓷硯である。
 唐になると杜甫(712〜770)の「石硯詩」、劉禹錫(772〜842)の「端渓硯詩」、李賀(791〜817)の「青花紫石歌」など、詩人たちにひろく詠まれている。このことから天然石を加工した硯が用いられ始めたことがわかる。唐の終わり頃には端渓硯・歙州硯・澄泥硯と呼ばれるものが出揃ったと推測される。硯の形は、―風―の形をしたものがあらわれ、農具の箕の形に似ていることから箕形硯また風字硯と呼ばれている。正倉院には聖武天皇の遺品と伝えられる「青班石硯」がある。陶製の風字硯(縦一四・八センチ×横一三・五センチ)を青班石におさめ、さらに紫檀の台座をすえつけた長径三〇・五センチ、総高八・〇センチの堂々たるものである。天平勝宝五年(753)に正倉院にはいり、唐よりの将来品と考えられている。
 宋になると蘇易簡(957〜995)の『文房四譜』、米芾(1051〜1107)の『研史』、唐積(北宋末の頃)の『歙州硯譜』、李之彦(南宋末の頃)の『硯譜』などの研究書が編まれた。こうして元・明・清をへて、現在にいたるまで盛んに石が掘られ、作硯が行なわれている。


第16章 元
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第1節 元の支配と文化
 元(1271〜1367)は、蒙古(モンゴル)族が漢民族を支配した征服王朝である。蒙古族は、中国を支配するうえで身分制度を設け、第一に蒙古人、次いで色目人、漢人、南人(蛮子ともいう)という順をおいた。色目人は蒙古人以外の外国人(主に西域人)、漢人は前の王朝である南宋に支配されていなかった中国人、南人は南宋の支配下にあった中国人のことである。異民族である蒙古人・色目人が、漢民族(中国人)を統治するという政治形態をとった。蒙古人一〇〇万人・色目人一〇〇万人が、漢人一〇〇〇万人・南人六〇〇〇万人を支配していたことになる。七〇〇〇万の漢民族を、わずか二〇〇万の外国人が支配した時代であった。

第2節 元の書相
 元の支配体制は、漢民族自身の文化にたいする意欲を消極的なものにした。これは蒙古第一主義が政治支配にとどまらず、精神面にも大きな影響を及ぼしたと言える。文学においても古典の模倣であり、書においても古典―王羲之への回帰であった。この王羲之の復活をひとり担ったのが趙孟頫(1254〜1322)である。趙の書は、正統漢文化の継承者としての役割を果たし、またひろく漢民族の知識層に受け入れられた。ここに唐末から宋において主流であった改革派による書表現は一掃されることになる。
 文化面では、元曲(元におこった戯曲と歌謡)に見るべきものがあるが、全体としては特筆すべき内容のない低迷した時期と評される。

第3節 趙孟頫
 趙孟頫(字―子昂、号―松雪)は、宋の初代皇帝太祖(趙匡胤)の末裔であり王族の系譜にあたる。その一族からは南宋の孝宗皇帝が即位した。元の初代皇帝の世祖フビライ(1215〜1294)により召し出されて、ついで成宗・武宗・仁宗・英宗の五代の皇帝に仕え、文官として栄達を極めた。書は、篆書・隷書をはじめ各体を善くし、平明な筆法による王羲之書法である。楷書でかかれた『玄妙観重修三門記』『仇鍔墓碑銘稿』また行書でかかれた『蘭亭序十三跋』をはじめとして多数存在する。画は精緻であり、その書画は元朝一代を代表する。


初出/『中国書道文化史』(平成9年4月)
Web版/平成18年5月再編・加筆