漢字の五体(5)   ◆◇◆HOMEにもどる


楷書の表現(1)
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 「楷書の表現」と題して宋(そう)・元(げん)・明(みん)・清(しん)のそれぞれの時代の特色ある表現の楷書作品を取り上げてみたいと思います。
 今回は、宋の徽宗(きそう)皇帝〈元豊5年(1082)〜紹興5年(1135)〉の楷書作品を見てみましょう。書道と宋という時代の関連を探ってみますと、『淳化閣帖(じゅんかかくじょう)』が一番に挙げられます。『淳化閣帖』というとピンとこない方もいるかもしれませんが、最初につくられた書道全集といえば分かりが早いでしょう。私達が見ている書道全集は甲骨文(こうこつぶん)・金文(きんぶん)からはじまり清の呉昌碩(ごしょうせき)あたりまでのものですが、『淳化閣帖』十巻は歴代の皇帝や名臣の書が第一巻から第五巻の半分を占め、のこり第六巻から第十巻の半分が王羲之(おうぎし)と王献之(おうけんし)の親子の書でした。今のものと比べるとだいぶ構成がことなりますが、この『淳化閣帖』が、すべての書の軌範として必ず手習いされていました。歴代の名人の臨書例のおおくがこの『淳化閣帖』によるものであることは、その証明でしょう。淳化は宋の第二代皇帝高宗(こうそう)の年号です。また中国の書画の鑑賞印として、よく目にする「政和(せいわ)」「宣和(せんな)」の印がありますが、これは第八代皇帝徽宗の年号です。「政和」「宣和」の印ともに文字を一つずつ四角に囲んだ、いわ ゆる下駄印(げたいん)というもので目につきやすいものです。ほかに「宣和」の名を冠するものに、歴代の書画の収蔵目録である『宣和書譜』『宣和画譜』、また古器物の収蔵目録である『宣和博古図(せんなはくこず)』、印の収蔵目録である『宣和印譜(せんないんぷ)』などがあります。
 宋は、歴史的に北宋(960〜1127)と、北方の移民族の女真族(じょしんぞく)の進入によって首都を臨安(りんあん・いまの浙江省杭州)に移した南宋(1127〜1279)に分かれます。徽宗はその北宋のわずかに二十五年間を皇帝に在位(1101〜1125)したにすぎませんが、徽宗一代でそれまでの国力のすべてを費やして文化事業を振興したといってよいでしょう。文人皇帝と呼ばれた徽宗でしたが、民衆にしてみればとんでもない浪費家で、けっして誉められたものではなかったはずです。しかしこの徽宗という文人皇帝のおかげで、空前絶後の文化行政が施行さました。その結果が『宣和書譜』『宣和画譜』『宣和印譜』として編集され、のちの世まで書画研究の出発点になりました。もうひとつは文化行政の長という執行者にとどまらず徽宗自身も詩書画の三絶を極めた芸術家であったことです。とくに徽宗の書く特長ある楷書は「痩金体(そうきんたい)」と呼ばれて、一生涯を文人修業に明けくれた皇帝の堂々たる威風を示しています。
 ここで紹介する徽宗『五色鸚鵡図(ごしょくおうむず)』は、『書道全集』第一五巻(平凡社 1954)に載せられているものです。ボストン美術館の収蔵品ということでしたが、平成九年九月に横浜そごう美術館で特別展覧されました。わたくしも本物を目前にして、見事なほどの強烈な印象の書画に時を忘れて見入ってしまいました。よく印刷物と実物とは天地ほど違うといわれますが、徽宗『五色鸚鵡図』ほどこの言葉を身を持って知ったことはありませんでした。これと言うのも、じつは徽宗の「痩金体」というものは皇帝の趣味的なものであって、けっして書の本流ではないと見過ごしていたからなのです。ところが作品保護のために照明を暗くしたガラスケースの中に静かにおかれている本物の徽宗『五色鸚鵡図』をみた瞬間に、いかに徽宗が伝統の護持者であり名実ともに文人皇帝であったことを知ったのでした。
 徽宗の書は、はじめ薜曜(せつよう)を学んで独特の「痩金体」にいたったとされます。薜曜は、生卒がはっきりしない人で、だいたい八世紀前後の頃の人です。薜曜の書は一見すると褚遂良(ちょすいりょう・596〜658)に似たところがあります。伏見冲敬先生は、「褚を学んだと見る人もあるが、全くの別系の書で、むしろこれは北朝の系統をおもわせるものがある。」として薜曜の書が褚遂良にもとづくことに疑問をなげかけています。


初出/『拓美』374号(平成9年1月)
再出/『菅城』636号(平成11年9月)
Web版/平成18年3月再編・加筆