漢字の五体(12) ◆◇◆HOMEにもどる
行書展望(その1)
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行書の古典として有名なものに、王羲之(おうぎし)の『蘭亭序(らんていじょ)』(353)、『集字聖教序(しゅうじしょうぎょうじょ)』(672)、『興福寺断碑(こうふくじだんぴ)』(721)があります。『集字聖教序』はべつに『集王聖教序(しゅうおうしょうぎょうじょ)』ともよばれ、唐の時代に僧の懐仁(えにん)によって王羲之の字を集めて作られました。『興福寺断碑』も王羲之の字を集めたもので、僧の大雅(たいが)によって作られたものです。王義之は、だれでもが知っているとおり書聖(しょせい)とたたえられ、書の神様でした。王羲之が生きていた当時から贋物(にせもの)があったと伝えられるくらいですから、そうとうの名人であったのでしょう。この名人王羲之を、二百年後に認めて書聖にまで高めたのは唐の第二代皇帝の太宗(たいそう 在位627〜649)でした。歴史に仮定はありませんが、もし太宗がべつの名人を認めていたら、こんにちの王羲之とはだいぶ違った扱いになっていたことでしょう。
太宗皇帝は、建国後八年にして即位して唐王朝三百年の礎(いしずえ)を築いた英邁な皇帝で、内政外交
に優れた施策を行ない中国歴代第一の皇帝とも評価されています。人物の登用にすぐれ、書の名人としては欧陽詢(おうようじゅん 557〜641)・虞世南(ぐせいなん 558〜638)・褚遂良(ちょすいりょう 596〜658)を側近にしています。当時、欧陽詢七一歳、虞世南七〇歳の高齢でしたが、太宗の命令により宮中で書の指導にあたりました。また、国内から王羲之の書を蒐集しましたが、その応酬には大金を惜しまずに与え、集められた王羲之の書は二二九〇紙になったといわれています。このなかには、さきほどの『蘭亭序』もありました。貞観(じょうがん)十三年(639)太宗は、複製の専門官である馮承素(ふうしょうそ)・趙模(ちょうも)・韓道政(かんどうせい)・諸葛貞(しょかつてい)の四人の供奉搨書人(きょうほうとうしょじん)に、『蘭亭序』の摸書(もしょ)を命じています。また欧陽詢・虞世南・褚遂良に命じて、臨書をさせています。欧陽詢の臨書になったものは定武本(ていぶぼん)『蘭亭序』、虞世南の臨書になったものは張金界奴本(ちょうきんかいどぼん)『蘭亭序』、褚遂良の臨書になったものは褚摸(ちょも)『蘭亭序』として、また馮承素の摸書になったものは神龍半印本(しんりゅうはんいんぼん)『蘭亭序』として伝わっています。虞世南・欧陽詢が亡くなってからは、四十歳半ばの褚遂良を登用しました。褚遂良は、太宗の王羲之コレクションニニ九〇紙(楷書五〇紙、行書二四〇紙、草書二〇〇〇紙)の整理にあたり、一三帙一二八巻に装幀しました。こうした太宗の王羲之崇拝は、国挙げての崇拝となり、書聖王羲之として絶対の尊重を不動のものにしました。
このように書を奨励し、王羲之手跡をコレクションし崇拝した太宗でしたが、太宗自身も書を残しています。『晋祠銘(しんしめい)』(646)が従来から知られるものでしたが、この石碑に書かれた書体は行書でした。そもそも石碑に書かれる書体は、篆書(てんしょ)・隷書(れいしょ)・楷書(かいしょ)にかぎられたものでした、これはその時々の正書体であるという理由です。このため正書体以外の行書・草書という補助書体が石に刻されることはありませんでした。この不文律ともいえる大原則を破ったのが太宗で、行書を石碑にもちいた最初の例となりました。『晋祠銘』の字姿は、もちもちした書きぶりで太宗の書としてはずいぶんと控え目な感じがします。この『晋祠銘』の太宗のイメージを一変させたのが『温泉銘』(おんせんめい)の拓本の発見でした。今世紀初頭に敦煌から多数の文書が発見されましたが、一九〇八年にフランス人ペリオによって発見されたものです。拓本にある書込みから、永徽(えいき)四年(653)のものであることが判ります。『温泉銘』は貞観二二年(648)に立碑されて、わずかに五年後のものです。このことから正真正銘の唐拓(とうたく)であり、太宗の書の神髄を伝えるものであることがわかりました。
『温泉銘』の字姿は、威風堂々とした太宗の皇帝そのままを文字にした書きぶりです。そして王羲之書法を自家薬籠中のものにした太宗の解釈でした。行書を得意とした太宗という文人皇帝としての趣味は、そのまま『集字聖教序』や『興福寺断碑』という手のこんだ石碑の建立の底流となったことでしょう。この太宗の行書趣味は、当時流行のモダンな書風として一世を風靡したものと思われます。こうした状況を承知して『蘭亭序』『集字聖教序』『温泉銘』を眺めてみると、唐という時代の王羲之に対する解釈と、太宗がつくりあげた行書の理想像が鮮明になることでしょう。こうした王羲之崇拝の書の様相に反発して、アンチ王羲之ともいわれる顔真卿の書が登場してくることになります。
初出/『拓美』386号(平成10年1月)
再出/『菅城』659号(平成13年8月)・664号(平成14年1月)
Web版/平成18年4月再編・加筆