漢字の五体(15)   ◆◇◆HOMEにもどる


行書の表現(その2)
*************************************************************************************
 今回は、北宋の黄庭堅(こうていけん)の行書作品を見てみましょう。黄庭堅〈慶暦(けいれき)五年・1045〜崇寧(すうねい)四年・1105〉、字は魯直(ろちょく)、号は山谷(さんこく)といいました。洪州分寧(こうしゅうふんねい 江西省・こうせいしょう)の出身です。黄に蔡襄(さいじょう 1012〜1067)・蘇軾(そしょく 1036〜1101)・米芾(べいふつ 1051〜1107)と合わせて宋の四大家(そうのしたいか)と称されます。
 黄は二二歳(1066)進士(しんし)に合格して、英宗(えいそう)・神宗(しんそう)・哲宗(てっそう)・徽宗(きそう)の五人の皇帝の御世を官僚として仕えました。英宗・神宗のころは新法党(改革派)が政治を主導しましたので、旧法党(保守派)であった黄は地方官を転々としていました。哲宗の元祐(げんゆう)年間は旧法党が採用されたことから、中央官僚〈神宗実録院検討官(しんそうじつろくいんけんとうかん)・著作佐郎(ちょさくさろう)など〉に栄転して、黄の人生のなかでもっとも華やかなころでした。このとき蘇軾と知りあい、のちに蘇を師と仰ぐことになりました。旧法党の政権はわずかに八年でおわり、紹聖(しょうせい)元年(1094)ふたたび新法党の政権になると、元祐年間に活躍した旧法党の人々は罪人として処遇されました。その弾圧のようすは『元祐党籍碑(げんゆうとうせきひ)』に氏名を刻して悪者(害政之臣 がいせいのしん)とされ、著述・書・碑・題額にいたるまで廃棄されました。氏名を刻されたのは司馬光(しばこう)を筆頭に三〇九人で、このなかに蘇・黄がいました。黄も処罰されて、涪州(ふうしゅう)・黔州(けんしゅう)・戎州(じゅうしゅう 以上いずれも四川省・しせんしょう)に、さらに宜州(ぎしゆう 広西省・こうせいしょう)に流されて六一歳で亡くなりました。時がうつり、南宋(なんそう)の度宗(どそう)のときに文節(ぶんせつ)と諡(おくりな)されて名誉を回復しましたが、黄没後一六〇年ほど後のことになります。
 黄の文芸にたいする考えは、『山谷題跋(さんこくだいばつ)』で知ることができます。〈この本はのちの人が集めたものです。明(みん)の毛晋(もうしん)が編集した『津逮秘書(しんたいひしょ)』という叢書には全九巻四〇九篇が収められ善本とされます。〉内容は詩文・書画についてのもので、とくに四巻(三四則)・五巻(四二則)は書の題跋が集められています。黄は書の名人として有名ですが、詩人としても一流の人物でした。
 『山谷題跋』を読んでみますと、書の理想を「妙(みょう)」「妙処(みょうしょ)」「妙墨(みょうぼく)」「妙絶(みょうぜつ)」といい、また「超軟絶塵」(ちょういつぜつじん)といい「逸気」(いっき)「韻勝(いんしょう)」とも表現しています。これらの言葉は、書の精神性について述べたもので、技法を超越した境地を説いたものです。また書の悪相を「俗気(ぞくき)」「無韻(むいん)」と表現しています。具体的には第一に王羲之(おうぎし)・王献之(おうけんし)を尊重していますが、そののちは張旭(ちょうきょく)と顔真卿(がんしんけい)だけが「書法の極に臻る。」(巻四 二五則)と断言しています。また顔真卿については「独り右軍父子(ゆうぐんふし)の超軼絶塵の処を得たり。」(同 二七則)と述べています。このほか楊凝式(ようぎょうしき)・懐素(かいそ)・蔡襄・蘇軾・米芾らを誉めています。黄自身の書については、「老夫(ろうふ 私)の書、本(もと)無法。」(巻五 四〇則)といい、草書については「妙処は、すべからく学ぶもの自得すべし。」(巻四 一八則)といいます。書の心理を得るのは、すべてはその人自身による。そして人格の完成なくして、超軼絶塵の書はなしえないことを主張します。
 取り上げた『劉禹錫詩巻(りゅううしゃくしかん)』は、ふつう『伏波神祠詩巻(ふくはしんししかん)』と呼ばれます。唐(とう)の劉禹錫の詩である「経伏波神祠詩」〈伏波神祠を経(へ)るの詩〉を書いたもので、黄五七歳〈建中靖国(けんちゅうせいこく)元年・1101〉五月の作です。巻末には宋の張孝祥(ちょうこうしょう)の跋(1168)、明の文徴明(ぶんちょうめい)の跋(1531)があり、清になって乾隆皇帝(けんりゅうこうてい)のコレクションになりました。現在わが国に将来されて、永青文庫(えいせいぶんこ)蔵の名品です。
 黄は草書にたかい評価がありますが、行書にも独特の境地を開きました。ゆっくりと線をあつめて右へ左へと手足をのばして一文字を書き上げ、文字が積み重ねられて一行ができあがり、本文一八行・跋文二八行、たて三四センチ・よこ八二〇センチにおよぶ長巻が完成されます。その書の気配は、『山谷題跋』の文中の言葉にある「沈着痛快(ちんちゃくつうかい)」というべきものでしょう。ただ、こうした黄の行書には古典となるべき対象は見当たらず、まったくの黄の独創といって良いものです。のちに黄の行書を学ぶ者はおおく、文徴明(1470〜1559)などはそっくりの行書を書いています。(『山谷題跋』四巻・五巻は、二玄社「中国書論大系』第四巻に足立豊先生の訳注により収められています。)


初出/『拓美』396号(平成10年11月)
再出/『菅城』678号(平成15年3月)
Web版/平成18年4月再編・加筆