漢字の五体(19)   ◆◇◆HOMEにもどる


草書について(その1)
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 草書という言葉を説明するとき、すこし困ってしまいます。……漢字の文字の構造のもっとも略化(りゃくか)したもの。……こう言えばよいのですが、では具体的にどういう法則で略化したかというと、あまりはっきりしません。ひとつひとつサンズイはこう、ゴンベンはこう、シンニョウ(またはシンニュウ)はこう、と書いて見せるしかないのです。こうした結果、共通した略化のスタイルどうし、また似ているが少しの筆画の違いで区別している略化のスタイルなどが、身についてくるものです。
 書体を考えると、楷書・行書・草書・篆書(てんしょ)・隷書(れいしょ)のうちひとつが草書ということになりますが、その成立の順番は異なります。
 古代の書である甲骨文(こうこつぶん)・金文(きんぶん)をもとにして篆書が整理されました。これを秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の文字統一、前二二一年のことです。しかし実際には篆書の実用体といえる文字も、あわせて存在して通行していました。
 つぎの漢の時代になると隷書(ここでは古隷・これい)・八分書(はっぷんれい)がひろく使われますが、時を同じくして隷書の略化したスタイルが木簡(もっかん)の筆跡にみることができます。この隷書の略化したスタイルが、草書と呼ばれているものです。さていったい誰がはじめたのでしょう、どうして全国にひろまって共通して用いることができたのでしょう。こうした不明点はあるのですが、草書の使用は一般化していったのでした。
 『説文解字(せつもんかいじ)』の序文には、「漢(かん)興(おこ)りて、草書あり。」という文章がありますが、実際に出土した木簡の筆跡からも裏付けられました。
 さらに『説文解字』の序文には秦書八体〈しんしょはちたい 大篆(だいてん)・小篆(しょうてん)・刻符(こくふ)・虫書(ちゅうしょ)・摸印(もいん)・署書(しょしょ)・殳書(しゅしょ)・隷書〉また新書六体〈しんしょろくたい 古文(こぶん)・奇字(きじ)・篆書・左(さしょ)書・繆篆(びゅううてん)・虫書〉を書体として説明していますが、このなかに草書をふくめていないことは、まだ公式な書体として認めていなかったこと、また書体として完成していなかったことが理由と考えられます。あくまでも個人の間でやりとりされる、私的なものであったのでしょう。
 こうした草書が公式体として認められたのは、後漢(ごかん)の章帝(しょうてい)(76〜87)のときに杜度(とど)が草書で上奏文を書いたことに始まります。残念ながら、この上奏文は残っていませんが、こうした記録があることは注意する必要があります。
 三国(さんごく 魏・呉・蜀)の時代になると、紙の普及とともに楷書・行書が完成します。草書の名人とというと王羲之(おうぎし)ということになりますが、王羲之が活躍したのは、まったく紙の時代であったといえます。こうした用具用材と書体の完成ということは見逃せないことです。王羲之の草書で特徴的なことは、草書の使用が尺牘(せきとく)つまり手紙に限られるということです。これは草書の始まりから、使用の目的が手紙であったことに由来すると思いますが、逆に言えば手紙は、草書に限られるということなのでしょう。わたしは王羲之『十七帖(じゅうしちじょう)』を見たときに、こんな手紙をやりとりしていて本当に間違いなく意志が伝わるのだろうか、大丈夫だろうかと心配なのですが、どうもそうではなくて手紙の使用書体は草書でなくてはならない、ここに“実用と美の一致を見る”ということらしいのです。
 唐の時代の楷書で名人である欧陽詢(おうようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・褚遂良(ちょすいりょう)について考えてみますと、手紙の名手で草書が尊重されていたという記録はないようです。唐の草書というと、まず孫過庭(そんかてい)『書譜(しょふ)』ということになりますが、ご承知のとおり『書譜』は書論であって手紙ではありません。役所の公文書とは違うものですが、書論という内容の文章を草書で書くということは、決して普通のことではないのです。こうしたことは、すでに唐のころには草書は手紙という実用をはなれて、書体として独立した書表現の方法のひとつになったと考えてよいでしょう。


初出/『拓美』404号(平成11年7月)
再出/『菅城』696号(平成16年9月)・698号(平成16年11月)
Web版/平成18年4月再編・加筆