漢字の五体(21)   ◆◇◆HOMEにもどる


草書展望(その1)
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 草書の伝統派とも正統派ともいえる古典として、王羲之(おうぎし)『十七帖(じゅうしちじょう)』『喪乱帖(そうらんじょう)』・智永(ちえい)『真草千字文(しんそうせんじもん)』・孫過庭(そんかてい)『書譜(しょふ)』を検討してみたいと思います。同じ草書という書体であっても、それぞれに内容や成立の状況がことなります。
 王羲之(303〜361)の『十七帖』『喪乱帖』は、尺牘(せきとく)つまり手紙を集めたものです。『十七帖』は、周撫(しゅうぶ)という人にあてた手紙を集めたものとされます。手紙ですから個人の間にやりとりされました。当然他人に公開されることを目的とするものではありませんし、お手本として書いたわけでもありません。内容は私信ですので、当事者以外は知る必要のないものです。書かれた筆跡は手紙の実用書体としての草書であって、ほかの誰かが学ぶための書といった軌範性は目的とされません。のちにこれらを学んだのは、字を習うことはもちろんですが、手紙の書例を学ぶための書翰文集という面もあったと思われます。
 智永(生卒不詳・陳隋のころの人 王羲之七世の孫)の『真草千字文』は、楷書と草書をならべてかいています。文献では三〇年間で八〇〇本が臨書されたことが伝わります。智永本人の書の練習ということもあるでしょうが、のちに八〇〇本を諸寺に献本していることから出来映えには自信があったのでしょうし、献本を目的に書かれた可能性もあります。つまりは公開されて手本とされることを意識された書といえるでしょう。
 『千字文』は、漢字習得のための教養書です。四字句の一対(八文字)を一二五章一〇〇〇文字によって構成され、韻律を駆使してリズムよく口に馴染んで覚えられるようになっています。これが『真草千字文』では楷書によって文字を知ると同時に、草書の美を学ぶことが目的になりました。
 智永のころには、草書は学ぶべき典型つまり王羲之ですが、それによって学習することが草書学習の方法になりました。このころから草書は日常に存在するものではなく、学ばなくてはならない特別な書体になったのです。こうして手紙の実用書体としての草書からはなれて、表現の手段として草書が意識されるようになります。
 孫過庭(648?〜703?)の『書譜』は、書美についての理論です。内容が書論であることから、本来は文章の伝達が目的とされたはずです。伝達を目的とするならば、読みやすく誤解がないようにするのが当然で、書かれる書体も楷書または行書が用いられるべきでしょう。ところが孫過庭『書譜』が草書で書かれていることは、ここにべつな意味づけが考えられるべきです。それは書論を草書で書くということで、草書つまりは手紙の書という実用の書体という考え方から、ひとつ独立した書体として書写の内容を選ばないということになります。
 孫過庭とおなじころに、こうした事実を裏付ける賀知章(がちしょう 659〜744)の草書『孝経(こうきょう)』があります。『孝経』は儒学(じゅがく)の一三種のテキストのひとつで孝道を内容とします。玄宗(げんそう)皇帝は、隷書で『孝経』(745)を書いているくらい厳格なものです。また唐のものとして草書『法華経』があり、草書がけっして簡略体ではなく楷書と同じくらいに軌範性を持って表現される書体になったことを意味しています。こうした内容と表現は、日常には見ない草書というものを自分はできるという書技の誇張を意識したものです。
 王羲之は四世紀のころ、智永は六世紀後半のころ、孫過庭は七世紀後半のころに活躍した人です。王羲之のころは手紙の書体として草書が日常頻繁に用いられましたが、王羲之以後の智永のころは、草書の名人として王羲之の書を習うことが目的とされ、草書が書体として意識されます。草書のスタイルの確立です。孫過庭のころは、草書を用いて儒教書・理論書・仏教典など、積極的に草書による表現が行われます。こうした草書の応用は、多彩な表現手段として書技のひとつとなりました。


初出/『拓美』408号(平成11年11月)
再出/『菅城』705号(平成17年6月)
Web版/平成18年4月再編・加筆