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草書展望(その2)
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今回は、張旭(ちょうきょく)・懐素(かいそ)の書を見てみましょう。二人とも生卒のはっきりしない人ですが、だいたい八世紀の頃に活躍して、すこし懐素が年少のようです。
唐(とう)という時代は、三百年ほどありますので大きく四期にわけて初・盛・中・晩(しょ・せい・ちゅう・ばん)とします。張旭・懐素は中唐(ちゅうとう)の人です。中唐期の人には文章家の韓愈(かんゆ 字は退之・たいし))・詩人の白居易(はくきょい 字は楽天・らくてん)らがいます。
ときに玄宗(げんそう)皇帝(在位712〜756)の御世でしたが、開元の治(かいげんのち)と称された栄華の善政は安禄山の乱(あんろくざんのらん 755〜763)によって終止符が打たれ、玄宗(げんそう)・粛宗(しゅくそう)・代宗(だいそう)の三代の皇帝にわたる十年近くにおよぶ内乱となりました。
この内乱は、中央政界での皇帝の権威失墜による宦官(かんがん)の専横、また地方での中央支配の弱体化による地方有力者の独立行動という政治的な理由だけではなく、社会構造の転換期という大きな背景を持ったものでした。それは、六朝(りくちょう)以来の政治の担い手であった門閥貴族の没落するのと時を同じくして、あたらしい地主層が経済力を持ちはじめたことで、この子弟が官吏登用試験の科挙(かきょ)によって政治に参加するようになりました。歴史的な点から見れば、中世から近世への時代の転換期ということができます。
これら政治・経済・社会状況の変化は文面的にも影響を与え、伝統的な六朝以来の貴族趣味を好まず、市民による新しい様相を求めるようになりました。このことは書にもあらわれ、太宗(たいそう)皇帝よって帝室の書の軌範とされ権威づけられた王羲之の書風への批判が行われるようになりました。韓愈が『石鼓歌』を作り、このなかで王羲之の書を―俗書―として激しく否定したことは知られるところですが、このころの状況から生じたものです。
この時期、王羲之の書に満足せず新しい表現をこころみた人たちは革新派とよばれました。これら革新派には、張旭(生卒不詳)・顔真卿(がんしんけい 709〜785)・柳公権(りゅうこうけん 778〜865)・懐素(生卒不詳)などが挙げられます。これらの中で草書に特徴を見せるのは、張旭・懐素です。
張旭(字は伯高・はくこう)は、確証のある書が存在しません。その書は、杜甫(とほ)の『飲中八仙歌(いんちゅうはっせんか)』に「張旭三杯、草聖伝。(ちょうきょくさんはい、そうせいつたはる。)」と詠まれました。草書の名人で、玄宗の頃に活躍した人物です。また、顔真卿に書を指導したといわれます。酒を好んで、絶叫狂走して下筆し、また髪に墨をつけて字を書いたと伝えられ―張顛(ちょうてん)―と呼ばれました。張旭が書を会得したのは、公孫大娘(こうそんだいじよう)の剣武を見たことによると伝えられます。こうした悟りともいえる書の会得は、従来の王羲之典型として学習する方法とは異なるものです。
懐素(俗姓―銭(せん)氏、字は蔵真・ぞうしん)は、幼くして仏門にはいりましたが、草書を好んで名がありました。その様子は、家が貧しかったので紙のかわりに芭蕉の葉に字を書いて習い、つかい終えた筆が山になったので埋めて筆塚(ふでづか)としたと伝えられます。酒を好んだ懐素は、大飲するにおよんで草書をところかまわず書き付けました。こうした行為から狂僧(きょうそう)と呼ばれ、張旭とともに―張顛素狂(ちょうてんそきょう)―と称されました。
張旭・懐素の書の特徴は、文字を連綿させること、文字の大きさに大小を持たせることです。また文献によれば大書を好んだことです。文字は意志を伝達することから離れて、視覚にうったえかける、見せることを目的に表現されることを意識した書です。過去にもこうした例は文献にあるでしょうが、それが真筆の書として伝来し確認出来るという意味では、最初期のものと言って良いでしょう。こうした表現は、書の役割が軌範的な美から、人間その人自身の存在を表すための表現手段になったことを明確にしたものです。書は時代ごとにその特徴を述べて……晋(しん)は韻(いん)を重んじ、唐(とう)は法(ほう)を重んじ、宋(そう)は個(こ)を重んず。……と言われます。この宋書の特徴が展開されるための原点となったものが、張旭・顔真卿・柳公権・懐素に代表される革新派とよばれる人々の書でした。
初出/『拓美』410号(平成12年1月)
Web版/平成18年4月再編・加筆