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草書の表現(その2)
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今回は明(みん)の解縉(かいしん)の草書作品を見てみましょう。解縉〈洪武(こうぶ)三年・1369〜永楽(えいらく)一三年 1415〉、字は大紳(たいしん)また縉紳(しんしん)といい、号は春雨(しゅんう)といいました。吉水(きっすい 江西省・こうせいしょう)の出身です。解の書作品また題跋の款印には「喜易斎印(きいさいいん)」印〈趙孟頫(ちょうもうふ)『急就章巻子(きゅうしゅうしょうかんす)』の解縉題跋における押印 1403)・「玉堂学士」(ぎょくどうがくし)印(解縉『草書軸』における押印)があることから、解の伝記資料には記されませんが、喜易斎・玉堂を別号として用いていたようです。なお姓名印には「解薦春雨縉紳之印」印(解縉『草書軸』における押印)がありますが、縉は薦に通じることから印文にもちいられたと思われます。
解は子供のころから極めて聡明優秀で、洪武(こうぶ)二一年(1388)、二〇歳という若さで科挙(かきょ)に合格し、進士(しんし)となりました。高級官僚として中書庶吉士(ちゅうしょしょきつし 官僚教習生)に任ぜられますが、ときの太祖帝(たいそてい 朱元璋・しゅげんしょう)から格別の御意をえて側近となります。皇帝の信任を受けた解は正義心にあつく任務に専念しますが周囲からは疎まれたようで、二二歳(1388)江西道監察御史(こうせいどうかんさつぎょし 江西省検察長官)を拝命して地方官となり、帝からは十年の帰郷を命ぜられます。八年ののち(1398)太祖帝が崩御し、弔問のために故郷を離れます。これが十年間の帰郷の帝命に背いたと咎められて、河州衛史〈かしゅうえいし 蘭州・鞏昌(らんしゅう・きょうしょう 甘粛省・かんしゅくしょう)の兵士〉に流罪となりました。三四歳のとき永楽帝(えいらくてい)が即位(1402)すると、侍読学士(じとくがくし 宮中書記官)に抜擢され南京(なんきん)の文淵閣(ぶんえんかく)にて国政にあたりました。勅命により『太祖実録(たいそじつろく)』『永楽大典(えいらくたいてん)』『古今列女伝(ここんれつじょでん)』の編纂にあたります。また三六歳(1404)翰林学士(かんりんがくし 宮中秘書官)・右春坊大学士(ゆうしゅんぼうだいがくし 皇太子侍従長)に昇進しますが、かわらぬ正義心と栄達ぶりは周囲の反感をかって悪評をまねきました。三九歳
(1407)ついに広西参議(こうせいさんぎ 広西省府顧問)として地方官への転出を命ぜられます。四二歳(1410)帝への奏上にあたり不手際があったことを理由に投獄され、永楽(えいらく)一三年(1415)一月一三日獄中にて処刑され四七歳で亡くなりました。著書に『文毅集(ぶんきしゅう)』(『解学士全集』ともいう)一六巻があります、書については『春雨雑述(しゅんうざつじゅつ)』一巻(芸術叢編『明人書学論著』所収 台湾世界書局)があって見ることができます。晩年の不遇から詩文著作の多くが廃棄され、残された書も少ないようです。
没後二十年ほどして没収財産が返還され(1436)、また朝議大夫(ちょうぎたいふ)が追贈位されて名誉を回復し(1465)、万暦(ばんれき)年間(1573〜1615)には文毅(ぶんき)と諡されました。
図版は、立幅草書軸です。いま立幅草書軸と紹介しましたが、本来であれば作品内容の作者名や詩文を明らかにしなければならないものです。ところが、ごらんのとおり一部をのぞいて文字を判読するのは困難です。款文には「広西参政(こうせいさんせい)、大紳解縉。」とあります、伝記資料から解が広西参政に任ぜられていたのは三九歳から四二歳ですので、このころに書かれたと思われます。
この作品から一見してわかるのは、文字を二字以上続けて書く連綿草(れんめんそう)を極端に誇張した表現です。連綿草は、草書だけにあることで篆・隷・楷・行(てん・れい・かい・ぎょう)の書体にはないことです。連綿草は紙面が長ければ長いほど、くりかえし連綿を行うことができ印象を強くします。書の歴史を眺めてみますと、巻子(かんす)の形式ははやく漢のころに行われました。割り箸状の簡を紐で結んで簀の子(すのこ)のようにして横にまいたものは篇簡(へんかん)といいますが、これが巻子のはじまりです。篇簡は紙に変わりましたが、横長に紙を用いていました。唐・宋(とう・そう)の書の名品が巻子の形式であることは、ご承知のとおりです。条幅や長条幅がはじまるのは南宋(なんそう)以後です。条幅のもっとも古い例は南宋・呉琚(生卒不詳)の七言絶句(台北故宮博物院蔵)といわれますが、宋・元(げん)の例は少なく一般化するのは明(みん)以後のようです。図版作品も、比較的初期の条幅形式として重要です。
解から二百年ののち、連綿草を駆使して独自の表現をなした、明末(みんまつ)ロマン派とよばれる黄道周(こうどうしゅう)・王鐸(おうたく)・倪元璐(げいげんろ)・傅山(ふざん)らがいますが、そうした書表現の先駆けをなす作品として記念すべきものです。
初出/『拓美』413号(平成12年4月)
Web版/平成18年4月再編・加筆