漢字の五体(29) ◆◇◆HOMEにもどる
篆書について(その2)
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篆書(てんしょ)、とくに小篆(しょうてん)についてお話ししましょう。小篆は、大篆(だいてん)をもとにして造られたものです。前二二一年に秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が文字統一したときのものが、小篆とされます。李斯(りし)の書ともされますが、確証はありません。大篆は、戦国(せんごく)時代において戦国の七雄(せんごくのしちゆう)といわれたときの秦の文字です。
さて、小篆は大篆をもとにして造られたと述べましたが、どのように整理したのか、実際に金文などの文字資料と小篆を比較検討して、明らかにしてみたいと思います。
なお、以下の指摘は、このようにして整理したと書物に記されたものではなく、あくまでも小篆とそれ以前の文字の変化を検討して得た結論です。
−整理1−同じ文字でありながら、偏・旁(へん・ぼう へんとつくり)とくに今日我々が漢和辞典の部首としてしているところのスタイルが一定していないものがありましたが、これを統一しました。
図(1)を参照下さい。旅(りょ)・族(ぞく)・旂(き)はおなじ〈●方ヘン+人 (えん)〉に属する文字ですが、金文のスタイルは一定していませんでした。これを〈●方ヘン+人〉に統一して小篆の姿になりました。追(つい)・道(どう)・遅(ち)もおなじ〈辶 (ちゃく)〉に属する文字でしたが、これも同様に統一されました。〈辶〉は、漢和辞典の部首では〈辵〉となって配列されています。
−整理2−偏旁の位置が大篆では一定していないものがありましたが、これを確定しました。
図(二)を参照下さい。鋳(ちゅう)・鈞(きん)は〈金〉に属する文字ですが、金文のスタイルにおける〈金〉はスタイルの右、スタイルの左、スタイルの左下、スタイルの中心と一定していませんでした。これをスタイルの左に統一しました。杞(き)・柳(りゅう)・樹(じゅ)もおなじ〈木〉に属する文字でしたが、これも同様に統一されました。
−整理3−同じ文字でありながら異なった偏旁を持つものがありましたが、これを統一しました。
図(三)を参照下さい。鐘(しょう)は、旁(つくり)にあたる〈童(どう)〉が声符となった文字ですが、〈重(じゅう)〉を声符とした鍾もあります。鐘・鍾は混用されて行なわれていましたが、これを〈童〉として鐘に統一されました。城(じょう)は、偏にあたる〈土(と)〉 〈享(かく)〉が混用されていましたが、これを〈土〉として城に統一されました。
−整理4−小篆に統一するのに、画数のおおいものは省略して他の文字と調和をはかりました。
図(四)を参照下さい。吾(ご)・草(そう)・栗(りつ)などは、小篆に統一する際に画数のおおいものは省略しました。
−整理5−小篆に統一するのに、画数の少ないものは増画して他の文字との調和をはかりました。
図(五)を参照下さい。集(しゅう)・游(ゆう)・渉(しょう)などは、小篆に統一する際に、画数の少ないものは増画しました。(図にある吾・草・栗・游・渉については、『石鼓文(せっこぶん』より採った。)
以上、整理の方法として五点を指摘しましたが、文字の性格を本当によく知った人が整理に当たったものだと感心させられます。とくに整理1がなかったら漢和辞典の部首による索引はできなかったでしょう。また整理2がなかったら、偏(へん)や旁(つくり)の位置が定まらずに漢字を覚えるのに大変苦労したことでしょう。始皇帝の文字統一の成果は、二十一世紀の今日でも変わることなく受け継がれていることからも、優れた内容であったことがわかります。以前ある方の書の入門書を読んでいましたら「小篆は、デザインされた文字でつまらない。」と記したものがありましたが、こうして小篆がいかに工夫されて造られた文字であることを知れば、決してそうではないと理解できることと思います。
初出/『拓美』425号(平成13年4月)
Web版/平成18年4月再編・加筆