漢字の五体(35) ◆◇◆HOMEにもどる
纂書の表現(その4)
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今回は、呉大澂(ごたいちょう)を取り上げてみたいと思います。呉は、道光(どうこう)一五年(1835)に生れました。はじめ名を大淳(たいじゅん)といいましたが、同治帝(どうちてい)の即位にあたり、帝の諱(いなみ)である載淳(さいじゅん)を敬避して、大澂(たいちょう)にあらためました。字は清卿(せいけい)・止敬(しけい)、号は恒軒(こうけん)といい、別号に愙斎(がくさい)・十六金符斎(じゅうろくきんぷさい)・千鉥斎(せんじさい)・白雲山樵(はくうんさんしょう)などがあります。出身は呉県(ごけん 江蘇省蘇州・こうそしょうそしゅう)です。愙斎は、呉四二才のときに購得した愙鼎(がくてい)にちなんだもので、呉自慢の蒐蔵品でした。これ以後、人々から愙斎先生と称されてひろく尊敬を集めました。
呉は幼少のころより学芸に親しみ、とくに作文・作画・刻印を学んでいます。二七歳のとき、上海に住まいを移して呉雲(ごうん 平斎・へいさい)の家に居遇しました。三四歳のとき、科挙に合格して進士となり翰林院庶吉士(かんりんいんしょきっし 行政府教習生)から陝甘学政〈せんかんがくせい 陝西省・甘粛省(せんせいしょう・かんしゅくしょう)教育長〉などを歴任し、五〇歳のとき朝鮮問題の処理のため日本と交渉解決にあたりました。のち広東巡撫(かんとんじゅんぶ 省軍長官)・湖南(こなん)巡撫となりましたが、六一歳一〇月、日清戦争の敗戦責任を理由に辞職しました。光緒(こうちょ)二八年(1902)正月、六八歳で亡くなりました。墓誌銘は、兪樾〈ゆえつ 曲園(きょくえん)〉の選文・王同愈〈おうどうゆ 勝之(しょうし)〉の書丹・注鳴鑾〈おうめいらん 柳門(りゅうもん)〉の篆蓋によって作られました。
さて呉の在世中に、阿片(あへん)戦争・太平天国(たいへいてんごく)の乱・清仏(しんふつ)戦争・日清戦争と国の内外に重大事件が続き、内憂外患まさに国難の時代でした。呉の伝記は『呉愙斎先生年譜』(台湾 文海出版杜 1965)が非常に詳しいのですが、これを読んでみますと政務の記事のほかは、ほとんどが文事にかんする内容です。例えば……六一歳九月三日、勅旨「陳宝鍼(ちんほうしん)が湖南巡撫に着任したらば、辞職を命ずる。」拝命。帰路に、陳淳(ちんじゅん)の花卉冊(かきさつ)の旧臨を□雨田(□うでん)に贈って、題語を書した。一〇月一一日、王先謙(おうせんけん)が来訪して、詩を唱和した。一二日、湖南巡撫辞職。帰途金陵(きんりょう)にて張之洞(ちょうしどう)と面談した。沈石田(ちんせきでん)の画巻に題を依頼した。……とあるように、世事の喧騒とは無縁のように呉個人の文事を楽しんでいるのです。不思議な気もしますが、なにかを心に覚悟していたのでしょうか。
呉の学芸の活躍は詩・書・画・刻印にわたりますが、もっとも専念したのは古銅器の研究でしょう。その研究成果は、古銅器・古印の文字三五〇〇余について釈読し『説文解字(せつもんかいじ)』に従って配列して『説文古籒補(せつもんこちゅうほ)』を編輯しました。古籒とは『説文解字』にある言葉で、そこでは小篆(しょうてん)が完成する前段階の文字をさしています。ただ今日わたしたちが見る金文(きんぶん)とは異なるものもあり、当時に伝承された古代文字のようです。これを増補したものが『説文古籒補』です。また釈読の内容については『字説(じせつ)』を著わしました。古銅器の器形・墨拓・考釈は『愙斎集古録(がくさいしゅうころく)』『恒軒所見所蔵吉金録(こうけんしょけんしょぞうきっきんろく)』で、古印の蒐集成果は『十六金符斎印存』で見ることができます。古印に見られる姓氏を考証して『続百家姓印譜(ぞくひゃっかせいいんぷ))』を、私印に見られる姓名を歴史書に点検して『周秦両漢名人印攷(しゅうしんりょうかんめいじんいんこう)』を著わしました。
図版は、徐鉉(じょげん)(917〜992)の『進校訂説文表(しんこうていせつもんひょう)』の文章を書いた立幅です。徐鉉は宋(そう)の人で、詩人また文字学者として活躍しました。とくに弟の徐鍇(じょかい)とともに『説文解字』本文を校訂して説文研究の基礎をなした人でした。作品款文にある甲申嘉平月既望(こうしんかへいげつきぼう)は、光緒一〇年(1884)呉五〇歳の陰暦一二月一六日にあたります。この日のことを先述の『呉愙斎先生年譜』にあたりますと一六日についての記述はありませんが、前後の記載内容から当時の朝鮮国京城(けいじょう)に滞在していたことは間違いないようで、この滞在中に揮毫されたもののようです。立幅中の文字は小篆ですが、小篆にみられる縦横比二対一のすらりとした構造よりは縦横比一対一の金文にちかい字姿で、呉が専心研究した古籒のスタイルに意図せずして近づいて表現されたものでしょう。
初出/『拓美』443号(平成14年10月)
Web版/平成18年4月再編・加筆