漢字の五体(38)   ◆◇◆HOMEにもどる


隷書について(その2)
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 隷書の起源から成立までを探ってみたいと思います。隷書は、篆書から生まれたことは、よく解説書にあることです。しかし紀元前二二一年の秦の始皇帝の文字統一(小篆)から、すぐに隷書が生まれたかというと、どうもそうではないらしいのです。
 この古代文字から隷書への移行を見ることができるのが、ここ五十年ほどのあいだに続々と発掘出土された帛書(はくしよ)・竹簡・木簡にみえる文字資料です。実際にこれらを見ることのできる資料は多数ありますが、専門的になりすぎず、すぐに入手できて一番手ごろなものとしては中国法書選一〇『木簡・竹簡・帛書』二玄社(1990)がよいでしょう。戦国時代から秦・漢・晋までの肉筆の文字の変遷をみることができます。
 隷書の初期の資料としては、秦の『雲夢秦簡(うんぼうしんかん)』(推定前256)があります。これが当時の使用文字と考えられていた『石鼓文』などにみられる書体(大篆)とおおきく異なることから、通行書体(日常に使用された書体)と考えられるものです。この通行書体にたいして、祭祀文・記念文などをかいた金文・石刻などの文字を儀礼文字として区別する考えが提案されました。また書体が篆書と異なることから、これがのちの隷書〈波勢によって文字が運筆され、波磔(はたく)をもっている書体〉のもととなったとして「秦隷(しんれい)」とよぶ研究者もいます。なにをもって隷書のもととするのか、根拠に乏しいのが気になる点です。かかれた文字の運筆をみますと、やや角張った印篆ですが多分に古代文字(甲骨文・金文)の構造も残しており、わたしには秦隷という呼名には違和を感じます。篆書のはやがきで筆画にあまり省略がありませんので「篆行(てんぎょう)」ならよいと思いますが、これはあくまでもわたしの造語です。
 前漢の肉筆資料には『馬王堆(まおうたい)帛書・竹簡・木簡』・『銀雀山(ぎんじゃくざん)竹簡』などがあります。書きぶりの違いはあるものの、秦の『雲夢秦簡』の書体を基本的には継承しています。ここまでが−篆行の時代−といえましょう。
 これ以後は隷書の特徴の一つである波勢のある文字の資料になります。『鳳凰山(ほうおうざん)竹簡・木簡』(一〇号墓木簡)は、文字のところどころですが波勢による波磔を強調したところが見られるものです。前漢初期の景帝四年(前153)の年号があることから、最古の隷書資料といえましょう。年号のある初期の隷書には、太初(たいしょ)三年(前102)・天漢(てんかん)三年(前98)・始元(しげん)五年(前82)・本始(ほんし)六年(前68)・地節(ちせつ)四年(前66)・元康(げんこう)元年(前65)・元康四年(前62)などの木簡があります。とくに元康四年木簡には注目すべき書例で、隷書の完成を見ることができます。
 わたしたちが隷書の古典として親しんでいるものは、『石門頌(せきもんしょう)』(148)・『乙瑛碑(いつえいひ)』(153)・『礼器碑(れいきひ)』(156)・『史晨碑(ししんひ)』(169)・『曹全碑(そうぜんひ)』(185)・『張遷碑(ちょうせんひ)』(186)などがあります。これらの建立の年を調べてみますと、後漢後期の西暦一五〇年から五十年ほどに集中していることがわかります。木簡の存在を知らなかった近年五十年以前の人々は、このころに隷書が完成したと考えていたことは当然のことと言えましょう。しかし発見された木簡から前漢の初期には隷書の初期の姿をみることができ、それから百年ほどした前漢の後期には立派な隷書が完成しています。
 このことから、書体の完成から正式文書として記録し使用されたことが確認できる石碑への使用までには、長い年月が必要であったことがわかります。書体が完成しても、ひろく人々への一般化や認知には相当の時間が必要で、隷書の場合、さきほどの元康四年木簡を隷書体の完成のめやすとして、石碑の建立が始まる西暦一五〇年以後を公式書体としての使用の年月をはかると、じつに百年を要しています。
 古隷の代表的な石碑とされる『魯孝王刻石(ろこうおうこくせき)』(前56)・『莱子侯刻石(らいしこう)』(前16)・『開通褒斜道刻石(かいつうほやどう)』(66)がかかれたころには、隷書は書体としては完成していて、けっして未完成でなかったことが木簡の出土発見によって明らかになりました。


初出/『拓美』455号(平成15年10月)
Web版/平成18年4月再編・加筆