臨書探訪48 (17)   ◆◇◆HOMEにもどる


黄易 臨 『西嶽華山廟碑』(四明本)
*************************************************************************************
 今回は、黄易(こうい)を取り上げてみたいと思います。黄は、乾隆(けんりゅう)九年(1744)に生れました。字を大易(だいい)、号を小松(しょうしょう)・秋盦(しゅうあん)といい、仁和(じんわ 杭州・こうしゅう)の出身です。官僚としては済寧(せいねい 山東省・さんとうしょう)の同知(どうち 次官)であったことが知られます。伝記には、詩書画篆刻に巧みであったことが記され文人としての活躍が紹介されています。黄の多くの作品のなかでももっとも名を高めたものは丁敬(ていけい)に学んだ篆刻で、名人として「西泠八家(せいれいはちか)」の一人に挙げられました。西泠八家は、杭州(浙江省・せっこうしょう)を中心に十八世紀中葉ころに活躍した八人の印人たちの呼び名で、これらの西泠八家につらなる印人は、総称して「浙派(せっぱ)」と言われるようになりました。丁敬は、西泠の印人のなかでも創始者としてまた主導者として人々の尊敬を集めていましたが、その高弟として出藍の誉を称えられました。このような文人としての活躍のほかに、黄は生涯にわたって全国各地を尋ねて埋もれていた石碑を捜訪し、青銅器や古鏡について考証鑑別を行ないました。その金石への執着は、山野をかまわず足を運び、寝食を忘れて研究に没頭したと伝えられます。こうして黄の手によって発見されたものに『武梁祠堂石室画像(ぶりょうしどうせきしつがぞう)』がありますが、保存のために武氏祠堂(ぶししどう)を建てて保護した黄の功績は世の中に広く知られるところでした。また、発見捜訪して新たに得られた漢魏の諸碑は『小蓬莱閣金石文字(しょうほうらいかくきんせきもんじ)』として集大成されました。嘉慶七年(1802)役人として在任のまま五九歳でなくなりました。
 黄と同じころに活躍した人に翁方綱(おうほうこう 1733〜1818)・ケ石如(とうせきじょ 1743〜1805)が、後輩には阮元(げんげん 1764〜1849)・包世臣(ほうせしん 1775〜1855)がいます。ちょうど金石に対する興味が高揚した時代で、翁・阮・包らが独自の見解で金石研究を提唱しました。こうした状況は黄にもいっそうの刺激を与えたようで、金石研究を理論ではなく実際の調査見聞に基づいた基礎研究をおこなった一人です。
 黄の著書は、『小蓬莱閣金石文字』のほかに『小蓬莱閣金石目(しょうほうらいかくきんせきもく)』・『嵩洛訪碑日記(すうらくほうひにっき)』・『武林訪碑録(ぶりんほうひろく)』・『岱巌訪古日記(たいがんほうこにっき)』が、詩集は『小蓬莱閣詩鈔(しょうほうらいかくししょう)』があります。書画は『西泠八家の書画篆刻』謙慎書道会編(二玄社)で、印は『丁黄印譜(ていこういんぷ)』・『黄小松印譜(こうしょうしょういんぷ)』・『秋景盦印譜(しゅうけいあんいんぷ)』また中国篆刻叢刊『黄易』第一四巻(二玄社)で見ることができます。
 さて、取り上げた黄臨の『西嶽華山廟碑(せいがくかざんびょうひ)』は、黄四七歳の書で縦六尺(182センチ)×横一尺五分(48センチ)にもなる大幅です。落款には出典を明記して「漢西嶽華山廟碑、郭允伯(かくいんはく)本。」としています。『西嶽華山廟碑』(延熹八年 165)は、明の嘉靖年間に失われ拓本のみが伝わり、なかでも善拓は長垣本(ちょうえんぼん)・関中本(かんちゅうぼん)・四明本(しめいぼん)の三種とされます。落款中の郭允伯は郭宗昌(かくしょうそう ?〜1652)のことで、郭宗昌本とは関中本をさしています。関中本は東雲駒(とううんく)・雲雛(うんすう)兄弟が所蔵していましたが、これを譲りうけたのが郭宗昌でした。落款中の朱竹君(しゅちくくん また朱竹垞・しゅちくだ)は朱彝尊(しゅいそん 1629〜1709)のこと、銭宮・(せんきゅうせん)また辛楣(しんび)は銭大マ(せんたいきん 1728〜1804)のこと、豊道生(ほうどうせい)は豊坊(ほうぼう 生卒不詳)のことで、いずれも当時一流の文人たちです。恭伯(きょうはく)は、はっきりしません。落款には黄が『西嶽華山廟碑』を臨書した時の喜びを書きとめています。「漢の西嶽華山廟碑、郭宗昌本。かつて恭伯とともに朱彝尊に会ったときに親しく鑑賞した。恭伯は文字を鈎摸(こうも 篭字のこと)して、北京で出版した。今年(乾隆五五年)、銭大マが所蔵していた豊坊の全拓本を見た。そこには唐の李文饒(りぶんじょう)らの識語があった。その神妙なありさまは、朱彝尊が言ったようにまさしく心を驚かせ魄(たましい)を動かすほどの喜びである。乾隆戊戌(けんりゅうぼじゅつ 乾隆五五年)中秋(陰暦八月十五日)の七日まえの日、銭唐(せんとう)の黄易、済寧の官署にて臨書した。」黄は、銭大マや翁方綱らとの交流が伝えられますが、これによってその一端が裏付けられました。また職歴について年号の詳細ははっきりしませんが、乾隆五五年四七歳の時には済寧に着任していたことがわかりました。


初出/『玄筆』18号(平成9年9月)
Web版/平成18年5月再編・加筆