臨書探訪77 (19)   ◆◇◆HOMEにもどる


楊峴 臨 「西嶽崋山廟碑」(四明本) 
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 今回は、楊峴(ようけん)を取り上げてみたいと思います。楊は、嘉慶(かけい)二四年(1819)に生れました。字を見山(けんざん)、号を季逑(ききゅう また季仇・ききゅう)といい、晩年には藐翁(びょうおう)・藐叟(びょうそう)といいました。斎号は庸斎(ようさい)・遅鴻軒(ちこうけん)といいました。帰安(きあん 浙江省・せっこうしょう)の出身です。一七歳で科挙に臨んで以後、予備試験である郷試(きょうし)に落第を繰り返した。郷試(きょうし)合格は三七歳のときで、さらに地方試験である会試(かいし)を受けましたが失敗して、のちに四度不合格となりました。はじめて任官したのは五九歳で江蘇常州府知事(こうそじょうじゅくふちじ)となり、六五歳で松江府知事(しょうこうふちじ)となり翌年三月に辞任してからは官界からは引退し、文墨に晩年をすごしました。清朝(しんちょう)の末期には国難がたび重なり、当時のおおくの文人が生涯に暗い影を落としました。楊も、阿片戦争や太平天国の乱がおこり国状不安のなかに青年期を送りました。もっとも楊の生涯に深刻な影響をあたえたのは、四四歳(同治・どうち 元年 1862)のときの浙江地方の騒乱でした。この兵火によって、二人の息子と姉・兄嫁の肉親を失い、さらに楊の自宅が全焼し、蔵書や著作はすべて灰尽(かいじん)に帰しました。生き残ったのは妻と次女だけで、次男の鴻煕(こうき)は消息不明となりました。楊は、このとき上海にいて難をのがれましたが、この事件以後、鴻煕の帰りを待ち望むという意で遅鴻軒を号としました。官界を引退して三年後七〇歳を前にして、ついに鴻煕の帰宅がないことを悟ったのか自分の生涯をふりかえって『藐叟年譜(びょうそうねんぷ)』を著わし、また自作の詩文集である『遅鴻軒詩棄(ちこうけんしき)』『遅鴻軒文棄(ちこうけんぶんき)』を再版しました。光緒(こうちょ)二二年(1896)七八歳で亡くなりました。
 楊の文人としての交流は、趙之謙(ちょうしけん 1829〜1884)・呉大澂(ごたいちょう 1835〜1902)・呉昌碩(ごしょうせき 1844〜1927)らが知られるところです。もっとも有名なのは呉昌碩に師と仰がれたことで、楊は友人として心置きのない交際を望んだようですが、呉は生涯にわたり師の礼をとり詩文を学びました。呉五〇歳の詩集である『缶廬詩(ふろし)』『缶廬別存(ふろべっそん)』の題字は、七五歳の楊の手になるものです。
 楊の書は、展覧会や、最近の頒布会でも見掛けますので作品数は少なくはないようです。こうしたこともあってか作品集は久しく編まれていなかったようですが、近年高木聖雨氏によって『楊峴の書法』(二玄社 1992)が上梓されました。本国である中国でさえ出版されないものが我国で出版されたのですから、日中文墨界の佳話といってよいでしょう。
 さて、取り上げた楊臨『西嶽華山廟碑(せいがくかざんびょうひ)』は、楊七〇歳の書です。楊の書は、臨書・詩句詩文にかぎらず隷書が数多く、ほかは楊独特の行書によるもので、これ以外の書体はわずかのようです。書の学習は『淳化閣帖(じゅんかかくじょう)』を中心に行なわれるのが常道ですが、楊の書を見るかぎり、そうした気配はないようです。なぜ楊にとって隷書でなければならなったのか、この疑問は楊の書に接するごとに感じることですが、どうもはっきりしません。ただ呉昌碩が『石鼓文(せっこぶん)』を終生の古典として金石の気(きんせきのき)を託したように、楊も隷書を書くことで、生涯にわたり精神の発露を見出しつづけたことは確かなことでしょう。楊守敬(ようしゅけい)は楊の書を評して、『礼器碑(れいきひ)』を学ぶと指摘(『学書邇言・がくしょじげん』)しています。しかし楊の臨書した古典は、『魯孝王刻石(ろこうおうこくせき)』『開通褒斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)』『祀三公山碑(しさんこうざんひ)』『石門頌(せきもんしょう)』『乙瑛碑(いつえいひ)』『礼器碑』『礼器碑碑陰(れきひひいん)』『桐柏廟碑(とうはくびょうひ)』『西嶽華山廟碑』『衡方碑(こうほうひ)』『史晨碑(ししんひ)』『西狭頌(せいきょうしょう)』『曹全碑(そうぜんひ)』『張遷碑(ちょうせんひ)』『孔羨碑(こうせんひ)』『爨宝子碑(さんぽうしひ)』『論経書詩(ろんけいしょし)』の臨書四二点があることを、楊の作品一三六点を検討した野村ひかり氏は指摘(『墨』bV4 「楊峴隷書に関する一考察」 芸術新聞社 1988)しています。これによっても、多数の隷書碑を中心とした臨書学習であったことが裏付けられます。


初出/『玄筆』20号(平成9年11月)
Web版/平成18年5月再編・加筆