臨書探訪27 (24)   ◆◇◆HOMEにもどる

沈荃 臨 顔真卿『争坐位稿』
*************************************************************************************
 今回は、沈荃(しんせん)を取り上げてみたいと思います。沈は、天啓(てんけい)四年(1624)に生れました。字を貞蕤(ていすい)、号を繹堂(えきどう)・充齋(じゅうさい)といい、華亭(かてい 江蘇省)の出身です。家系によれば、明初(みんしょ)の宣徳(せんとく)年間に「二沈(にしん)」と称された草書で書名の高い沈度(しんど)・沈粲(しんさん)兄弟がいますが、沈粲の十世の孫にあたると伝えられます。書を善くすることは、沈家の家学とされて、こうした環境にはぐくまれた沈も学書に励んだのでしょう。父をはやくに亡くしましたが、学問をおさめても優秀で、順治(じゅんち)九年(1652)二九歳で科挙に第三席で合格し、進士となりました。合格者第三席は、とくに「探華(たんか)」とよばれます。掲載の臨書の白文印は「壬辰探華(じんしんたんか)」が押されています。順治九年の干支は壬辰にあたり、この年の探華という意味です。こうした印を使用していることは、沈自身たいへんに矜持とするところがあったのでしょう。官僚としては、翰林院編修(かんりんいんへんしゅう 総理府書記官)をはじめに・事府・事(せんじふせんじ 宮内省侍従)・翰林院侍読学士(かんりんいんじとくがくし 宮内省教授)・礼部侍郎(れいぶじろう 文部省次官)などを累進歴任しました。康煕(こうき)二三年(1684)六一歳で亡くなりました。著書には『充齋集』『南帆詠』があります。
 沈の書は、鍾繇(しょうよう)・王羲之(おうぎし)をはじめとして近人にいたるまでひろく古典を学んだとされます。なかでもとくに董其昌の影響が濃いように思えます。手もとの資料でも、臨書の例として王羲之『蘭亭序』・顔真卿『争坐位稿』・懐素『自叙帖』『過鐘帖(かしょうじょう)』『聖母帖』がありましたので、ほかにもおおくの臨書例があることでしょう。沈書の行書・草書には董風のものが多いことはひろく知られるところですが、沈の楷書軸(陸樹聲・りくじゅせい「燕居課・えんきょか」)を上海博物館の蔵品に見ることができます。これが台北故宮博物院の董其昌の楷書軸(杜甫「謁玄元皇帝廟詩・げんげんこうていびょうをえっするのし」)と酷似していることから、ひろく董其昌を精習臨摸して一家をなしたようすが知られます。沈の書名を一躍おしあげたのは清朝の元君、聖祖康煕帝(せいそこうきてい)の殊遇を得たことによるものでした。康煕帝と沈との出合いは、帝が沈の書を賞したためとも、また帝が董其昌を好んで、沈が董と同郷(華亭)であったためともいわれますが、のちに康煕帝の右筆(ゆうひつ)として帝の代筆をしたことから、信任のあつかったことは確かです。また沈が亡くなったあと文恪(ぶんかく)と諡(おくりな)されましたが、‥‥諡を与えるためには官位の条件があり、沈は官位がひくいにもかかわらず諡を与えられたのは康煕帝の御意によるもので、このことは帝の信任の証である‥‥ことを上海博物館の朱恒蔚(しゅこううつ)氏は指摘しています。
 取り上げた臨顔真卿『争坐位稿』は、文稿の途中を書いたものです。『争坐位稿』は、こんにち刻本で見られるものですが、宋の徽宗内府にあったころは真跡が伝えられていた(『宣和書譜・せんなしょふ』記載)ようで、のちは真跡の伝来は著録されていません。刻本の系統には三種あって、安刻本(あんこくほん)・呉刻本(ごこくほん)・関中本(かんちゅうほん)とされます。現在見られるものは関中本とされます。上野書道博物館には董其昌の題による『争坐位稿』刻本(平凡社『書道全集』10 所収)があり、これによったものかと思いましたが、沈臨の三行目の「厭」に書いて上野本と異なることから断定はしがたいようです。なお関中本は厂がなく「猒」にしています。また沈臨の三行目したの「名蔵太室之廷。」のあとにつづくべき、関中本にある「吁足畏也。」を書いていないことも気にかかります。さいきん書聖会主催『明清書画小品展』(上野の森美術館)で扇面の沈臨『争坐位稿』を見ましたが、やはり「厭」を「日+厂+猒」に書いて関中本と異なり、どうも系統のちがうものをテキストにしているようです。款文の平原(へいげん)は顔真卿のことで、平原太守(へいげんたいしゅ 山東省平原県長官)であったことから顔平原とよばれました。また印可(いんか)は仏道の悟りを得たことを認めたもので、仏教者をさすものでしょう。


初出/『玄筆』25号(平成10年4月)
Web版/平成18年4月再編・加筆