臨書探訪42 (28) ◆◇◆HOMEにもどる
桂馥 臨 『西嶽華山廟碑』(重刻本)
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今回は、桂馥(けいふく)を取り上げてみたいと思います。桂は乾隆(けんりゅう)元年(1736)に生まれました。字(あざな)を冬卉(とうき)、号(ごう)を未谷(みこく)といい、 べつに字を冬卉・未谷、号を雩門(うもん)ともする資料もあります。曲阜(きょくふ 山東省・さんとうしょう)の出身です。乾隆五四年に挙人(きょじん 科挙二次試験合格者)となり、翌年五五歳で進士(しんし)となりました。嘉慶(かけい)元年に永平県知県(えいへいけんちけん 雲南省・うんなんしょう)となり、在任一〇年にして嘉慶一〇年(1805)七〇歳で亡くなりました。科挙(かきょ)合格までに歳月はかかりましたが、桂の優秀さは知られていたようで三三歳で貢生(こうせい 教授候補者)に推薦されました。教習(きょうしゅう 教授研修)をへて長山県訓導(さんちょうけんくんどう 山東省・さんとうしょう、訓導とは教授のこと)となり文教振興に尽力したと伝えられます。
桂は書篆刻をよくしましたが、学芸の中心となるものは『説文解字(せつもんかいじ)』研究に生涯を傾注した文字学者としての活躍でしょう。研究を集大成した『説文解字義證(せつもんかいじぎしょう)』五〇巻は、経書(けいしょ)を引用して解釈をすすめた名著とされます。ほかに古印の文字を字典に仕立てた『繆篆分韻(びゅうてんぶいんいん)』は、古印研究の著述として特筆されます。また元(げん)の吾丘衍(ごきゅうえん)の『三十五挙(さんじゅうごきょ)』(篆隷および篆刻技法について三五条を挙げた入門書)を補って『続三十五挙(ぞくさんじゅうごきょ)』を著わしました。西泠印社(せいれいいんしゃ)『印人画像(いんじんがぞう)』(1915)は二八人を選んで印人としての功労を顕賞していますが、このなかに桂も選ばれました。丁敬(ていけい)にはじまり六番目に、桂七〇歳の肖像とともに略伝が書かれています。ところが実際に、桂の篆刻作品を捜してみますと数が少なく、諸資料を網羅したとされる『篆刻叢刊』(二玄社)ですら一〇面を載せる(第二〇巻)にとどまります。こうしたことから篆刻家としての活躍よりは、古印研究の恩人としての功労が評価されたと思われます。
桂の書は、篆刻とおなじように作品が少ないようです。これについては、桂自身が「望むことは、作品依頼を持ち込まない人と酒をのむこと。できないことは、素性も知らない人のために書をなすこと。」(願與不解周旋人飲酒。難為未識姓名人作書。)という言葉を書斎に掲げて、委嘱を謝絶していたことを神田喜一郎先生は指摘されています。作品が少ないので全貌を探ることは難しいのですが、手元の資料でも隷書によるものばかりです。また、識者の評価も分隷(ふんれい)・八分書(はっぷんれい)・隷筆(れいひつ)・漢隷(かんれい)・分書(ふんれい)などの言葉の違いはあるものの隷書に限られて評価されていることからも、書作はおおく隷書によってなされたものでしょう。
取り上げた臨『西嶽華山廟碑(せいがくかざんびょうひ)』は、碑の途中を書いたものです。『西嶽華山廟碑』は、西嶽華山廟(陝西省華陰県 せんせいしょうかいんけん)にあった漢碑(延熹八年 165)でしたが、もともとの碑は壊れて袁逢(えんぽう)という人が再建したものでした。これがさらに明(みん)の嘉靖(かせい)年間のころに失われたことから、拓本のみが伝えられています。『西嶽華山廟碑』は、長垣本(ちょうえんぼん)・関中本(かんちゅうぼん 華陰本ともいう)・四明本(しめいぼん)の三種の系統があります。長垣本が十字を損なうほどであるのにたいして、関中本・四明本は百字あまりを損なっています。桂臨は、臨書個所冒頭において関中本・四明本が多数欠字しているところを一字もかかさず書いていることから長垣本の系統の拓本によったものと思われます。資料としては西東書房(せいとうしょぼう)の刊本(長垣本)、また二玄社の刊本(書跡名品叢刊『西嶽華山廟碑』は、はじめ上野書道博物館所蔵の長垣本を載せましたが、のちに華陰本にかわりました。)に見ることができます。
桂は臨書を終えて「果亭(かてい)の依頼によって『華山碑』を臨した。昔の人の筆跡は、ことに手が及ばない。用いた墨も調子がよくない。ただ拮挶(きっきょく)を覚えるだけである。」と記しています。拮挶とは、思うようにならない意味で、作品のできばえに不満であった様子が書かれています。
初出/『玄筆』29号(平成10年8月)
Web版/平成18年5月再編・加筆