臨書探訪43 (61)   ◆◇◆HOMEにもどる


銭灃 臨 顔真卿『争坐位稿』(関中本)
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 今回は、銭灃(せんほう 注1)を取り上げてみたいと思います。銭は、乾隆(けんりゅう)五年(1740)に生れました。字は東注(とうちゅう)また約甫(やくほ)といい、号を南園(なんえん)といいました。昆明(こんめい 雲南省・うんなんしょう)の出身です。
 乾隆三六年(1771)三二歳、科挙(かきょ 高級官僚採用試験)に合格して進士(しんし)となります。官僚として通政司副使(つうせいしふくし 奏上職副長官)・提督湖南学政(ていとくこなんがくせい 湖南省軍大臣)などを歴任し、乾隆六〇年(1795)五六歳で亡くなりました。乾隆帝(けんりゅうてい)の信任あつく軍務を委任され、昼夜を精勤したとされます。五六歳の死というのも、いまでいえば過労死であったかも知れません。乾隆帝は在位六十年をむかえ翌年(嘉慶元年 1796)一月には帝位を嘉慶帝(かけいてい)に譲りますが、その年に亡くなったというのも何か因縁めいたものを感じます。
 良吏として忠謹にはげんだ銭でしたが、文事である詩文書画にも見るべきものを残しました。詩文は、『南園集(なんえんしゅう)』に見ることができます。画は馬をこのんで描きました。先年、上海博物館の所蔵品による『中国明清書画名品展』(謙慎書道会主催 1991)に銭の「三馬図軸(さんばずじく)」が展示されましたが、たいへん精密な伝統画法による優品であったことが思いおこされます。書は、とくに顔真卿(がんしんけい)をまなんで一家をなしたことが指摘されます。くわえて欧陽詢(おうようじゅん)・褚遂良(ちょすいりょう)・米芾(べいふつ)をまなんだことを指摘するものもありますが、もっとも顔真卿の影響がつよいように思われます。銭は、宮中にあっては直言をもって知られていたらしく、和珅(わしん 注2)が帝寵をうしろだてに専横するのに反対したことは書物に記されるところです。顔真卿は、安史の乱(あんしのらん)という唐王朝の国難にあたって殉国した忠臣として有名ですが、銭自身も清王朝三百年の礎をきずいた乾隆帝への忠命を奉じた人でした。そうした銭が、顔真卿の書をまなんだことはごく自然のことといえましょう。
 取り上げた図版は、顔真卿『争坐位稿(そうざいこう)』の冒頭より末尾までの全臨一四紙の冊子です。上海博物館の蔵品で、平成六年(1994)大阪市立美術館蔵・上海博物館蔵『中国書画名品展』に展覧されました。
 『争坐位稿』(広徳二年・764 顔五六歳)は、顔真卿が郭英乂(かくえいがい)にあたえた手紙の草稿です。このことから『与郭英乂書(かくえいがいにあたへるのしょ)』ともよばれます。『祭姪稿(さいてつこう)』(乾元元年・758 顔五〇歳)『祭伯稿(さいはくこう)』(前同)とともに顔真卿の三稿として激賞されるものです。米帝は顔の楷書をきらって「蚕頭燕尾(さんとうえんび)」と評してけなしましたが、『争坐位稿』については「篆籒(てんちゅう)の気(き)あり、顔書の第一となす。字、相(あい)連続し、詭異飛動(きいひどう)す。」……古代文字の精霊がやどっていて、顔書のもっとも優れた書である。文字が連続して、格別に生動している。……といって誉めています。
 『祭姪稿』は真跡が台北故宮博物院に現蔵されますが、『争坐位稿』『祭伯稿』は刻本によってのみ知られるものです。『争坐位稿』は真跡がはやくに失われたようで、『戯鴻堂法帖(げこうどうほうじょう)』(巻八)また西安碑林刻石(せいあんひりんこくせき 陳西省博物館碑林第二室)などの拓本でみること茄できます。
 銭臨と『争坐位稿』を一字一字について比較検討してみましたが、すんぶん違わず臨書していることがわかりました。原本が下書きのため文章に手直しや書入れがあり、さらにこれが刻本であるために、ずいぶんと見にくかったり判然としないところがあるのですが、ひじょうに忠実に書いています。こうしたことは銭の「争坐位稿』への愛着と学習の厳密さをしめすものであり、銭自身の誠実な人柄を反映したものでしょう。

注1、ほんらい灃(音ホウ)と澧(音レイ)は区別されるが、混用されている。銭の自用印の使用文字は灃であり、銭灃はセンホウと読む。
注2、和珅、満州族の出身。乾隆帝の特恩をうけて側近となり、官職を累進した。地位を利用して派閥をなして宮中を専横したが、乾隆帝の死後五 日にして断罪され嘉慶帝より死を賜わった。


初出/『玄筆』62号(平成13年5月)
Web版/平成18年5月再編・加筆