臨書探訪10 (77)


藤原行成 臨 「王羲之尺牘」
*************************************************************************************
 今回は、三蹟(さんぜき)として書名のたかい藤原行成(ふじはらのゆきなり 972―1027)と推定される臨「王羲之尺牘」を取り上げてみたいと思います。臨「王羲之尺牘」は、国宝『秋萩帖(あきはぎじょう)』の巻途中に始まり巻末まで書かれた王羲之尺牘一一種の臨書です。『秋萩帖』は、和歌四八首が書かれ、さらに臨「王羲之尺牘」が付されます。帖という題名ですが形式は巻子で、わが国では巻子であっても帖と称することは、空海『風信帖』などにも例のあることです。巻子の紙背には『淮南子(えなんじ)』(巻二十)が書かれて、巻の表裏の両面書写となっています。
 『秋萩帖』の筆者は、三蹟にあげられた小野道風(おののみちかぜ 894―966)と伝えられますが確証はありません。伝来ではっきりしていることは、伏見天皇(ふしみてんのう 1265―1317)の鑑賞をへて、霊元天皇(れいげんてんのう 654―1732)の御物となりました。のちに大正二年(1913)高松宮家(たかまつのみやけ)の御所蔵をへて、現在東京国立博物館に収蔵されます。『秋萩帖』には署名がありませんが、霊元天皇宸筆による『秋萩帖』の箱書きに「野跡(やせき)。和歌四十八種。行字九段。一巻廿枚。」とあることから、これを小野道風に推定することを明確にしたのは帝にはじまるようです。野跡とは、小野道風の筆跡のことです。しかしながら異説もあり、筆者は確定されていません。
 『秋萩帖』の現状は、藍・白・黄・茶などの着色や布目加工した料紙二一枚を継いだ巻子です。これに和歌四八首を一首四行に構成して、一九二行を書写(第一紙から第一五紙途中まで)しています。しかし筆跡に違いがあることから、第一紙(二首 A)と第二紙以下(四六首 B)とは別人ものと考えられています。さらに、王羲之尺牘の臨書(第一五紙途中から第二一紙まで C)があります。研究者の点検の結果から、BとCは同一筆者と考えられていて異論はないようです。また背面の第二一紙からはじまり第二紙にかけて、『淮南子』(巻二十)が書写(D)されています。このことから『秋萩帖』には、Aの書人@・BとCの書人A・Dの書人Bの三人の書き手が存在することになります。
 『秋萩帖』が現在見られる姿になるまでの書写順を考えてみますと、最初に素紙二〇紙を用いてDが書かれ、のちに二〇紙を一枚ごとに料紙加工してB・Cが書かれ、A(第一紙)に継いだようです。つぎに、B・Cの筆者(書人A)ですが、これはAの文字の姿をそのまま用いて和歌四六首を書いたもののようです。Aに書かれた文字とBの文字を対照すると、全くといってよいほど同じ姿をしていることが指摘されます。この点からBの筆者はAの書風を完全に継承するために、Bの筆者自身の書技を極力おさえて忠実に倣書しているようです。これはAの筆者に対するBの筆者自身の絶対の尊敬か、または依頼者があった場合その厳命など、特殊な理由が存在すると思われます。このBの筆者は藤原行成と推定されていますが、これも確証はありません。古谷稔氏は、臨書部分Cの字姿を行成の筆跡とくらべて、同筆とは断定できないが共通の趣があること、行成が王羲之の書を宮中から借覧していること、『淮南子』を所持していたことなどから、行成ではないという確証はないとして行成執筆説を否定していません。
 取り上げた図版は、王羲之「得丹楊書帖(とくたんようしょじょう)」(『淳化閣帖』巻七 所収)の臨書です。これを含めて『秋萩帖』にある臨「王羲之尺牘」の内容は、@初月廿五日帖(しょげつにじゅうごにちじょう)・A知遠近帖(ちえんきんじょう)・B絶不得帖(ぜつふとくじょう)・C向遣信帖(こうけんしんじょう)・D知阿黝帖(ちあゆうじょう)・E郷里人帖(きょうりじんじょう)・F六月十九日帖・G得丹楊書帖・H想清和帖(そうせいわじょう)〈『東書堂帖(とうしょどうじょう)』巻四 所収〉・I高枕帖(こうちんじょう)・J重熙還帖(じゅうきかんじょう)〈『翰香館帖(かんこうかんじょう)』巻四 所収〉の一一種です。このうちGHJは、現在見ることのできる法帖にあるものです。これ以外の@からFとIの八種は、『秋萩帖』だけにあって他に見ないものです。(Iについては、『宣和書譜』巻一五に題目があるものの、書は載せていません。)わが国には、中国よりの将来品と考えられる摸写本『喪乱帖』『孔侍中帖』があり、これらは最も王羲之に近いと考えられるものですが、『秋萩帖』にある臨「王羲之尺牘」も『喪乱帖』『孔侍中帖』のような優れた摸写本からの臨書と考えられ、また時の能書家の手によるもので、その筆跡は注目すべきものがあります。

 *近年、刊行された古谷稔氏『秋萩帖と草仮名の研究』二玄社(1996)は、『秋萩帖』研究の集大成でひじょうに詳密な内容です。本章もおおく研究成果を引用させていただきました、是非一読をおすすめします。


初出/『玄筆』78号(平成14年9月)
Web版/平成18年4月再編・加筆