臨書探訪要説4 ◆◇◆HOMEにもどる
―董其昌と明末ロマン派―(明中期〜後期)
*************************************************************************************
元朝の趙孟頫(ちょうもうふ)によって復活された王羲之書法は、元朝一代を覆い尽くしま した。これは、宋朝の王羲之書法を否定して個人の意(個性)が先行する書のあり方に対する強い反発でした。趙孟頫によって再生された王羲之書法は、明朝にも受け継がれました。しかし
継承だけにとどまる文芸の常として、固定化し形骸化してゆく宿命は避けられないものでした。
文徴明を盟主とする呉派の活躍に、強く反発したのは董其昌(とうきしょう)でした。董の対立は たんに門派の対立ではなく、定型化された王羲之書法への挑戦でした。董は天真爛漫の説を唱えて、王羲之書法への新しい解釈を試み実践しました。それは静から動へ、そして平面から立体へと書の展開を目指したものでした。董の影響をうけた同時期の文人たちは、華亭派と呼ばれました。董の提唱は、当時定着し一般化した長条幅による書表現と相乗して、連綿草による誇張表現へと変貌を遂げます。これをよくした張瑞図(ちょうずいと)・黄道周(こうどうしゅう)・王鐸(おうたく)・倪元璐(げいげんろ)・傅山(ふざん)らは明末ロマン派と称されて、明末清初を代表する書流を形成しました。
*関連記事 ―明後期― 〜嘉靖・万暦・崇禎年間〜
・邢侗(1551―1612)臨 王羲之「袁生帖」 ―臨書探訪32―
・董其昌(1555―1636)臨 顔真卿「裴将軍詩」 ―臨書探訪5―
・王鐸(1592―1652)臨 「徐嶠之帖」 ―臨書探訪2―
・傅山(1607―1684)臨 王羲之「伏想清和帖」 ―臨書探訪10―
―清朝初期の文人たち、康熙帝と後期華亭派―(清朝初期)
*************************************************************************************
漢人による明朝が満州族の清朝に滅ぼされると、宋朝が元朝に滅ぼされた時とおなじように、文人達はそれぞれの人生を選択することになります。清朝は漢人の採用に積極的でしたので、明朝の重臣でありながら清朝にも出仕した人物が多数いて、そのひとりが王鐸でした。ぎゃくに節を重んじ再出仕を拒んで在野に身をおいた、査士標(さしひょう)・宋曹(そうそう)などがいます。また傅山は、明朝復活を唱え抵抗運動をつづけました。そして明朝の王族でありながら僧籍にはいり、また狂人をかこった朱耷(しゅとう 八大山人)がいます。朱は書画を残していますが、いずれも伝統を拒絶した書法画法で、じゅうらいの様式に見られないものです。王族でしたので何の生産手段もなく、ましてや清朝に抵抗する術(すべ)もなく、ただただ書画をもって明朝王族の末裔としての誇りと清朝への抵抗を自己の精神において発露したものでした。
康熙帝(こうきてい)即位ののち六十一年の統治のもと、清朝は完全に中国を支配しました。外面的な支配では満州族の髪型である辮髪(べんぱつ)の強制で、満州族王朝への絶対服従の証となりました。文人などの知識層には内面的な重圧として文字の獄(もじのごく)を強行し、詩文中の文字使用を逐一検閲して反清思想を封じました。懐柔政策としては推薦(博学鴻詞科)による官僚への登用をすすめ、また叢書編纂(『康煕字典』『古今図書集成』など)によって多数の文人の採用を積極的に行なっています。
康熙帝は満州族でありながら中国伝統文化のなかでもとくに董其昌の書を好みました。帝自身も董書をよくして、周囲の沈荃(しんせん)・高士奇(こうしき)などの重臣も董流が行なわれ宮中をあげて董書一色に染まりました。この董流の盛行は、董其昌らの活躍を華亭派とよんだことにちなみ後期華亭派とよばれます。
*関連記事 ―明末・清初― 〜万暦・崇禎・順治・康熙年間〜
・査士標(1615―1698)臨 米芾「徳忱帖」 ―臨書探訪34―
・沈荃(1624―1684)臨 顔真卿「争座位稿」 ―臨書探訪24―
・朱耷(1626―1705)臨 蘇軾「文与可枯木賛帖」 ―臨書探訪57―
・姜宸英(1628―1699)臨 王羲之「蘭亭序」 ―臨書探訪22―
・宋曹(?―1628・1701―?)臨 王献之「鵞群帖」 ―臨書探訪46―
・高士奇(1645―1704)臨 顔真卿「争座位稿」 ―臨書探訪48―
―唐様と近衛家熙―(日本―江戸中期)
*************************************************************************************
明朝と清朝の交代の混乱に、知識人をふくめた多数の中国人が日本に亡命しました。これが弾みとなって明朝の書風が直接に、わが国に移入されました。僧侶・儒学者などに影響をあたえ様唐(からよう)という新しい書流を形成し、じゅうらいの和様(わよう)の流派書道にくわえて行なわれました。公家であった近衛家熙は見識に優れ、名蹟から直接に臨摸することによって和様・唐様に偏ることなく、王羲之書法・平安朝漢字・王朝仮名を学びました。
*関連記事 日本―江戸― 〜元禄・享保年間〜
・近衛家熙(1667―1736)臨 「藤原佐理帖」 ―臨書探訪69―
―揚州八怪、乾隆帝の文事―(清朝中期)
*************************************************************************************
康熙帝の後継である雍正帝(ようぜいてい)のころには、国家の安定による経済活動の飛躍から交易都市の揚州(ようしゅう)に新興の大商人が活躍しました。新興商人達は財閥となり、その蓄財を書画にも注ぎ込んだことから在野にあった文人達が揚州に集結してゆきました。とくに揚州八怪(ようしゅうはっかい)とよばれた汪士慎(おうししん)・李蝉(りせん)・金農(きんのう)・鄭變(ていしょう)などは、各々その独自を表現しました。八怪にあげられた人々は師承をもたず伝統を背景としなかったことが、怪とよばれた由縁でした。
乾隆帝(けんりゅうてい)六十年間の御世は内政・外交を成功させ、もっとも国力が充実した時期でした。康熙帝が好んだことによる董其昌書風の盛行は、さらに乾隆帝の康熙帝崇拝によって清朝帝室の書に位置付けられることになりました。むかし唐朝の太宗が王羲之の書に最高の評価を与えて―国の書―とされたのと同じように、董書が尊重されました。そして唐朝のときと同じように官僚や文人達にもつよい影響をあたえ、行書・草書をよくした王澍(おうじゅ)・張照(ちょうしょう)・劉墉(りゅうよう)・王文治(おうぶんち)・翁方綱(おうほうこう)など多くの名人が登場します。
また乾隆帝は政務に精励する一方で、文事とくに書画の鑑賞蒐集も熱烈でした。帝の書斎である三希堂における書画コレクションは清朝二五〇年において最も充実したものとなり、その多くは現在の台北・北京にある故宮博物院に継承され名品として公開されています。
*関連記事 ―清中期― 〜康熙・雍正・乾隆・嘉慶年間〜
・王澍(1668―1739)臨 米芾「蜀素帖」 ―臨書探訪26―
・金農(1687―1763)臨 「西嶽崋山廟碑」 ―臨書探訪12―
・張照(1691―1745)臨 顔真卿「争座位稿」 ―臨書探訪35―
・鄭變(1693―1765)臨 「岣嶁碑」 ―臨書探訪81―
・乾隆帝(1711―1799)臨 蘇軾「購硯帖」 ―臨書探訪68―
・劉墉(1719―1804)臨 張旭「深秋帖」 ―臨書探訪51―
・梁巘(?―1762―1788) 王羲之「吾惟弁弁帖」 ―臨書探訪25―
・王文治(1730―1802)臨 集字王羲之「蘭亭叙」 ―臨書探訪36―
・翁方綱(1733―1818)臨 王羲之「快雪時晴帖」 ―臨書探訪14―
初出/『玄筆』105号(平成16年12月)
Web版/平成18年4月再編・加筆