駒沢女子大学研究紀要　第六号（１９９９）所収

�ｹ石如　隷書冊頁『詩経』大雅抑篇について
A study of Chinese poem anthology “Shi―jing" ,By Deng Shi―ru
（作品論）

遠藤昌弘
Masahiro Endo


目次
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０．はじめに
１．作品の概要
２．�ｹ書『詩経』大雅抑篇の本文
３．隷書『詩経』大雅抑篇に書かれた文字
４．隷書『詩経』大雅抑篇に押された款印
５．�ｹの伝記資料と略伝
６．�ｹの生涯の実像
７．包世臣における�ｹ石如の評価
８．�ｹの文芸と評価
９．�ｹ書における隷書
１０．�ｹ書における『詩経』大雅抑篇
１１．結語
〈参考文献〉


０．はじめに
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さる平成五年一〇月二六日また平成一一年九月二八日、東京国立博物館（東京　上野）において、�ｹ石如の隷書冊頁『詩経』大雅抑篇について調査鑑賞する機会を両度得た。本稿は、この調査内容を概略し、検討を加えたものである。

　調査鑑賞にあたり、特別の御高配を頂いた筑波大学教授角井博先生また東京国立博物館学芸部東洋課中国美術室長富田淳氏に対しましては深謝申し上げる次第である。


１．作品の概要
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　本件は、朱絲界を施した紙面に墨書されて冊頁に仕立てられている。一開あたり四字詰八行で、全一六開である。一開の縦長29.5cm、横長44.0cmで、二開から一六開は縦長29.5cm、横長43.5cmである。
　狭板には「�ｹ完白先生隷書冊真蹟　頤石斎主珍蔵」�@の題簽がある。本文一六開の前に二開また後に二開の冷金箋があるが、題跋蔵書印等はない。総計二〇開により構成されている。
　本文一開と二開から一六開までとに紙面の寸法の違いがあるが、細密に点検すると一開右辺5mmには刀跡があり引首印にあたっている、そこで本文一開右辺のみ5mmを残したことが理由と思われる。これは本件が原装ではなく、改装をへていることを示している。また始頁一開と終頁一六開に僅かながら汚損が見られ、本文前二開また後二開の冷金箋には汚損がないことからも裏付けられる。これから原装の紙面を復原すると縦長30.5cm、横長44.5cmであることが考えられる。
　内容は、『詩経』にある大雅抑篇一二章の全文を隷書によって書い
たものである。作品款文には嘉慶二年（丁巳　１７９７）の既望（１０月１６日）に書かれたことが記され、�ｹ石如五五歳の書である。
　作品の来歴は、押印された鑑蔵印から清朝末期の収蔵家である呉雲�Aを経て、高島菊次郎氏�Bの所蔵となり、高島氏より東京国立博物館に寄贈された�C。

�@頤石齋、姓名伝記とも不詳。
�A号、平斎。１８１１〜１８８３　金石書画の収蔵家として著名。
�B号、槐安。１８７５〜　福岡県北九州市門司の出身、実業家。
�C昭和四〇年（１９６５）の寄贈。寄贈の内容は『高島菊次郎氏寄贈中国美術展目録』（東京国立博物館　１９６５）で、作品図版は『槐安居楽事』（求龍堂　１９６４）でみることができる。
　『槐安居楽事』は、高島菊次郎氏が蒐集した中国美術品のカタログで、九〇歳を祝頌して作られた。これが高島氏自身の高志により一括して東京国立博物館に寄贈された。
　寄贈品の内、�ｹ書は四件。四体帖（嘉慶二年七月　１７９７）・楷書冊『長慶集』・行書七言絶句立幅、および本件（嘉慶二年一〇月　１７９７）である。
　なお『槐安居楽事』『高島菊次郎氏寄贈中国美術展目録』ともに四体帖を目録に挙げて、隷書冊頁『詩経』大雅抑篇を挙げないが、図版に四体帖として載せられた作品写真は隷書冊頁『詩経』大雅抑篇の終頁である。これは四体帖と隷書冊頁『詩経』大雅抑篇がおなじ匣に収められ、この匣題が「四体帖」とあるためである。




２．�ｹ書『詩経』大雅抑篇の本文
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　�ｹ石如の隷書冊頁『詩経』大雅抑篇は、『書道藝術』第一〇巻（中央公論社　１９７６）に写真図版六開が紹介されている。六開の内容は、冊頁冒頭の第一開から第三開まで、末尾の第一四開から第一六開までである。
　今回、一六開全部について内容を調査し、�ｹ書『詩経』大雅抑篇の本文について本文対校を行なった。なお対校にあたり、『詩集伝』（香港中華書局　１９６１）を使用した。

・記号（ ）は、『詩集伝』にあって、�ｹ書にない文字。
・記号★は、�ｹ書にある文字で、『詩集伝』とは異なるもの。
・記号＊は、『詩集伝』にある文字。
・記号◎は、別体字また異体字であるが、『詩集伝』と同じ内容を持つ文字。

第一開
「抑抑威儀／維徳之隅／人亦有言／靡◎�普m＊哲］不愚／庶人之愚／亦職維疾／◎�普m＊哲］人之愚／亦維斯戻」
第二開
「無競維人／四方其訓／之有覺徳／行四國順／之訏謨定／命遠猶辰／告敬愼威／儀維民之」
第三開
「則其在于／今興迷亂／于政顛覆／厥徳荒湛／于酒女雖／湛樂從弗／念厥紹罔／敷求先王」
第四開
「克共明刑／肆皇天弗／尚如彼泉／◎◆［＊流］無淪胥／以亡夙興／夜寐◎灑［＊洒］掃／★庭［＊廷］内維民／之章脩爾」
第五開
「車馬弓矢／戎兵用戒／戎作用逷／蠻方質爾／人民謹爾／侯度（用戒不虞）愼爾／出話敬爾／威儀無不」
第六開
「柔嘉白圭／之玷尚可／磨也斯言／之玷不可／磨也無易／由言無曰／苟矣莫捫／朕舌言不」
第七開
「可逝矣無／言不讎無／徳不報惠／于朋友庶／民小子子／孫繩繩萬／民靡不承／視爾友君」
第八開
「子輯柔爾／顏不遐有／愆相在爾／室尚不◎愧［＊媿］／于屋漏無／曰不顯莫／予云覯神／之格思不」
第九開
「可度思矧／可★弋［＊射］思辟／爾爲徳俾／臧俾嘉淑／愼爾止不／愆于儀不／僣不賊鮮／不爲則投」
第一〇開
「我以桃報／之以李彼／童而角實／虹小子荏／染柔木言／緡之絲温／温恭人維／徳之基其」
第一一開
「維◎�普m＊哲］人告／之話言順／徳之行其／維愚人覆／謂我僣民／各有心於／◎戲［＊乎］小子未／知臧否匪」
第一二開
「手攜之言／示之事匪／面命之言／提其耳借／曰未知亦／既抱★之［＊子］民／之靡盈誰／夙知而莫」
第一三開
「成昊天孔／昭我生靡／樂視爾夢／夢我心慘／慘誨爾諄／諄聽我藐／藐匪用爲／教覆用爲」
第一四開
「虐借曰未／知亦聿既／耄於◎戲［＊乎］小／子告爾舊／止聽用我／謀庶無大／悔天方艱／難曰喪厥」
第一五開
「國取譬不／遠昊天不／忒回遹其／徳俾民大／棘抑十二／章三章章／八句九章／章十句　」
第一六開
「嘉慶二年／歳在丁巳／十月既望／書於醉墨／軒中　　／完白山人／�ｹ石如　／　　　」

　第五開のなかに四文字を「用戒不虞」を脱落していることを確認した。
　また第四開・第九開・第一二開にそれぞれ一字、計三字に異同がある。


３．隷書『詩経』大雅抑篇に書かれた文字
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　作品�@には、異体字が多用されている。この例は以下の通り。
・第一開には、Ａ「儀」、Ｂ「徳」、Ｃ「�普v、Ｄ「庶」、Ｅ「職」。・第三開には、Ｆ「今」、Ｇ「亂」、Ｈ「顛」、Ｉ「荒」。
・第一四開には、Ｊ「戲」、Ｋ「聽」。
・第一六開には、Ｌ「歳」。

�@平成一一年八月二七日、東京国立博物館資料館において本件の写真資料を検索したが、第二開から第一五開については未収録であった。このため資料図版により第一開から第三開、第一四開から第一六開までの文字について検討した。

　それぞれの異体字の出典は、
Ａ「儀」、『隷弁』に字例がある。
Ｂ「徳」、『隷弁』に字例がある。
Ｃ「�普v、『隷弁』に字例がある。
Ｄ「庶」、『隷弁』に字例がある。
Ｅ「職」、出典不明。
Ｆ「今」、『隷弁』に字例がある。
Ｇ「亂」、出典不明。
Ｈ「顛」、出典不明。
Ｉ「荒」、出典不明。
Ｊ「戲」、『隷法彙纂』に字例がある。
Ｋ「聽」、出典不明。
Ｌ「歳」、『隷弁』に字例がある。

　包世臣『芸舟双輯』に収められる「完白山人伝」には、�ｹの隷書学習の様子を述べている�@。
　……『史晨前後碑』『西嶽華山廟碑』『白石神君碑』『張遷碑』『潘校官碑』『孔羨碑』『受禅碑』『大饗碑』について、それぞれを五十本臨書して三年にして分書（隷書）が完成した。……書かれた分書が遒麗にして淳質であり変化は方物することができない。結体は極めて厳整であり、渾融無迹のさまである。（わたくし）包が思うことには『嶧山碑』『禅国山碑』の法を取り入れている。だから山人（�ｹ）が自ら謂うことには「私の篆書は李陽冰�Aには及ばないが、分書なら梁鵠�Bには劣らない。」……という。このようにして�ｹみずから隷書にたいして自信の程を述べているが、作品の揮毫にあたっては『隷弁』や『隷法彙纂』など、当時の通行の実用書とも言うべき隷書字典を援用していることがわかり、包の伝記内容と、�ｹの実際の書作の内容とは齟齬がある。
　�ｹの当時にあって、隷書の実用書は、『漢隷字源』�C（『隷弁』�D『隷法彙纂』�E）の系統と『隷韻』�Fの系統がある。�ｹも諸本のいずれかによったものであろうことは、想像するに難くない。むしろ包世臣の「完白山人伝」を全面否定するものではないが、布衣であった�ｹ石如を余りにも権威づけしようとする誇張の意図が伺える。
　また、出典不明の文字があるが、これは今後の課題として検討の必要がある。

�@乃学漢分、臨『史晨前後碑』『華山碑』『白石神君』『張遷』『潘校官』『孔羨』『受禅』『大饗』各五十本。三年分書成。……其分書遒麗淳質、変化不可方物。結体極厳整、而渾融無迹。葢約『嶧山碑』『国山』之法而為之。故山人自謂、吾篆未及陽冰、而分不減梁鵠。
�A生卒不詳、唐中葉の頃の人。篆書の名人として、秦の李斯以後第一人者と言われた。
�B生卒不詳、晋末魏初の頃の人。後漢の能書家の師宜官の法を学び、八分の名手とされる。
�C婁機（１１３３〜１２１１）が、『漢隷字源』六巻を著わした。
�D顧藹吉が『漢隷字源』を増訂し、『隷弁』八巻を著わした。康煕五七年（１７１８）項��が、玉煙堂本『隷弁』を刊行した。
�E項懐述が、『隷弁』を『康煕字典』の部目により「画引」配列として『隷法彙纂』十巻を著わした。
�F淳煕二年（１１７５）劉球が、『隷韻』十巻を著わした。嘉定五年（１２１２）宋鈞が、『隷韻』を重修した。明末に毛晋が、『隷韻』を重写重刻した。







４．隷書『詩経』大雅抑篇に押された款印
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　第一開に「家在龍山鳳水」印、第一六開に「石如」印、「�ｹ氏石如」印がある。
・「家在龍山鳳水」印は、�ｹ石如四九歳から五九歳のあいだの作品に押印されている�@。
・「石如」印は、四九歳から五五歳のあいだの作品に押印されている�A。
・「�ｹ氏石如」印は、五五歳から五八歳のあいだの作品に押印されている�B。

�@『家在龍山鳳水』印（朱文）は、�ｹ自用印三〇件のなかで、もっとも使用期間が長く、一一年間にわたり用いられた�ｹ愛用のものである。使用時期として５０歳（１例）・５１歳（１例）・５２歳（１例）・５３歳（１例）・５５歳（３例）・５６歳（１例）・５７歳（１例）・５８歳（２例）・５９歳（１例）に押印例がある。
・５０歳（１７９２）立幅　隷書「磯邊鵠去蘚………」
・５１歳（１７９３）立幅　草書「到來忽評有………」
・５２歳（１７９４）対幅　隷書「萬華盛處松………」
・５３歳（１７９５）立幅　草書「江樓玉篴暗………」
・５５歳（１７９７）冊頁　四体書　（隷書）「少學琴書偶………」
・５５歳（１７９７）立幅　行草書「清風江閣早………」
・５５歳（１７９７）冊頁　楷書「抑々威儀維………」（本件）
・５６歳（１７９８）立幅　草書「百尺偕攀豁………」
・５７歳（１７９９）冊頁　四体書　（楷書）「司馬温公云………」
・５８歳（１８００）立幅　篆書「龍虎之山靈………」
・５８歳（１８００）八屏　草書『登東嶽』　「岱秩巍巍秉………」
・５９歳（１８０１）四屏　四体書　（隷書）「僕長安道陵………」
�A『石如』印（朱文）は、使用時期として４９歳（２例）・５０歳（１例）・５１歳（１例）・５２歳（１例）・５３歳（１例）・５５歳（３例）に押印例がある。
・４９歳（１７９１）篆書『程子四箴』　「程子四箴視………」
・４９歳（１７９１）四屏　篆書「南陔孝子相………」
・５０歳（１７９２）立幅　隷書「磯邊鵠去蘚………」
・５１歳（１７９３）立幅　草書「到來忽評有………」
・５２歳（１７９４）対幅　隷書「萬華盛處松………」
・５３歳（１７９５）立幅　草書「江樓玉篴暗………」
・５５歳（１７９７）冊頁　四体書　（草書）「擇故山濱水………」
・５５歳（１７９７）立幅　行草書「清風江閣早………」
・５５歳（１７９７）冊頁　楷書「抑々威儀維………」（本件）
�B『�ｹ氏完白』印（白文）は、使用時期として５５歳（４例）・５６歳（１例）・５７歳（４例）・５８歳（４例）に押印例がある。
・５５歳（１７９７）冊頁　四体書　（楷書）「雪齋清境發………」
・５５歳（１７９７）冊頁　四体書　（草書）「擇故山濱水………」
・５５歳（１７９７）立幅　行草書「清風江閣早………」
・５５歳（１７９７）冊頁　楷書「抑々威儀維………」（本件）
・５６歳（１７９８）立幅　草書「百尺偕攀豁………」
・５７歳（１７９９）立幅　篆書『徽國朱文公四齋銘』　「奠我徳性希………」
・５７歳（１７９９）冊頁　四体書　（隷書）「焚香看書人………」
・５７歳（１７９９）冊頁　四体書　（楷書）「司馬温公云………」
・５７歳（１７９９）冊頁　四体書　（行草書）「躊躇畦苑遊………」
・５８歳（１８００）立幅　篆書「龍虎之山靈………」
・５８歳（１８００）横披　篆書『敬止堂』
・５８歳（１８００）五屏　篆書『徽國朱文公四齋銘』　「奠我徳性希………」
・５８歳（１８００）八屏　草書『登東嶽』　「岱秩巍巍秉………」


５．�ｹの伝記資料と略伝
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　�ｹの伝記資料には、『清史稿』巻五〇三・『国朝先正事略』巻四四・『国朝書画家筆録』巻二・『国朝書人輯畧』巻六などの資料がある�@。

　�ｹは清の乾隆八年（１７４３）四月二九日、懐寧県（安徽省）集賢関外大龍山西北白麟坂に生れた�A。
　祖代に鄱陽県（江西省）より懐寧県にうつり、�ｹ君瑞より一三世が石如にあたる。父は一枝（号木斎）、祖父は澹園という。
　はじめ名は琰、字を石如といった。のちに仁宗嘉慶帝の即位に際し、五四歳以後その諱（顒琰）を敬避して名を石如、字を頑伯に改めた。別号として古浣・古浣子・長卿・笈遊道人・鐵硯山房・完白山人・完白山民・完白翁を書法款識に見ることができる。また刻印款識には、ほかに赤玉・頑道人がある。

�@いずれの資料も�ｹと同時期に活躍した、孫雲桂『完白山人伝』・呉育『�ｹ石如伝』・包世臣『完白山人伝』・方履籛『�ｹ完白先生墓碑』・李兆洛『石如�ｹ君墓志銘』・楊沂孫『完白山民伝』にもとづいたものである。
�A�ｹ光祖「�ｹ石如伝略」（光緒三〇年重修『白隣�ｹ氏宗譜』所収　１９０４）に拠る。


６．�ｹの生涯の実像
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　資料により一致しない部分や事実と異なる処もあるが、最も詳しい内容を持つ包世臣「完白山人伝」の概略は次ぎの通り。
・弱冠に両親を亡くし�@、生活のために諸国に売印をした。
・七八年して寿州にて梁巘に認められる。梁の紹介によって梅鏐の援助を受けた�A。
・八年滞在したうち、はじめ五年篆書を学び、のち三年隷書を学んだ。梅家の傾業とともに、梅家を離れ売書売印を業とした�B。
・歙県にて書を張恵言（１７６１〜１８０２）に認められ�C、張の紹介により金榜（１７３５〜１８０１）の援助を受けた。一年滞在して金家の諸書を揮毫した。この間、金の推薦によって曹文埴（生卒不詳）のために書作した。
・四六歳妻を娶る。数年のち亡くなって後妻を娶る�D。
・乾隆五五年（１７９０　四八歳）曹の招きによって北京にゆき劉墉（１７１９〜１８０４）また陸錫熊（１７３４〜１７９２）に賞賛される。のち劉は失脚し、また陸が急逝した。さらに翁方綱（１７３３〜１８１８）から批判されたことから北京を離れた。
・のちに畢沅（１７３０〜１７９７）の招き�Eに応じた。三年間滞在したのち帰郷にあたり住居宅地を贈った。
・嘉慶七年（１８０３　六〇歳）包世臣と出合う。
・嘉慶一〇年（１８０５　六三歳）一〇月四日、自宅で亡くなった。　

�@父一枝が亡くなったのは乾隆五二年（１７８７　四五歳）の時。
�A刻印作品から三八歳頃と考えられる。
�B三八歳〜四六歳頃。
�C金榜との交際は乾隆四七年（１７８２　四〇歳）の時。
�D潘氏との結婚は乾隆二五年（１７６０　一八歳）の時。沈氏との再婚は乾隆四九年（１７８７　四二歳）の時。
�E書法作品から五〇歳頃と考えられる。

　包「完白山人伝」については、年代に正確を欠く所があるが内容についてはおおむね妥当である。こうして�ｹの生涯を綜覧すると、�ｹ自身による事実よりも�ｹと係わった人物による記録である。こうしたことは、�ｹが科挙に応じなかったことにより官職の記録が皆無であること。また文芸面での活躍とくに詩文での著作がなかったことが理由と思われる。�ｹと同時期に活躍した政治家や文人、また名士との逸話を連ねることで�ｹの伝記は構成される。これによって生涯を一布衣に過ごした�ｹの在野での活躍は、処世に縛られることのない精神の自由を強調するものである。


７．包世臣における�ｹ石如の評価
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　包世臣�@は『芸舟双楫』の「論書」なかで、書の理想とすべき表現を気満としている。この理想を実現するために逆入平出という実践手段を提唱する。さらに「国朝書品」において過去の作家に優劣を加えた。
　九段階による評価で、最高を神品とし、ついで妙品・能品・逸品・佳品のそれぞれを上下とした。神品に�ｹの隷書（古隷）と真書（楷書）を挙げ、つぎの妙品上は、�ｹの八分と篆書を挙げた。行書・草書をのぞいて�ｹの楷書・篆書・隷書・八分が最高のものであることを主張した。のちに包は、�ｹの草書を妙品上に加えている。
　包の�ｹにたいする尊嵩は、そのまま「完白山人伝」にも反映されて事実を誇張して表現している部分があることは十分考慮されるべきことである。

�@号、倦翁。１７７５〜１８５５　包の書論は、北碑の尊重を提唱して、阮元の書論とともに清朝後半期における北碑派流行の素地となった。


８．�ｹの文芸と評価
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　�ｹの文芸は、刻印と書法に限定される。文人の三絶とも四絶とも言われる詩書画篆刻のうち、画については管見にして未見である。詩文�@については専集としての上梓は見当たらない。こうしたことは、それだけに刻印書法に生涯を凝縮したと言うべきであろう。
　�ｹにおいて刻印書法は平行して実践されたと考えられるが、先行して完成したのは刻印である。制作年のある作品を点検�Aしても、刻印が三〇代半ばに集中して見られる。また生涯を通して刻印は行なわれ二〇〇顆余りが確認できる。刻印は�ｹの生涯を通しての生業であったようである。
　書法は、篆書隷書が�ｹの最も評価されるところで、とくに篆書書法は今日にいたるも最高境地とされる。篆書は当時、玉箸篆が完成されていたが、筆鋒を焼いて揮毫するなど工芸的要素が強かった。これを後に逆入平出と呼ばれる筆法によって篆書書法を完成させたのが�ｹである。
　�ｹ以後、篆書書法を継承した呉煕載・趙之謙・呉昌碩等がいるが、清朝後期を代表する書法家であると同時に、著名な篆刻家でもある。この事実は�ｹによって始めて書法と刻印が一致したことを示すものである。�ｹによって確立された篆書書法と刻印の一致による近代篆刻の創始は、�ｹ最大の功績である�B。

�@西川寧先生は『完白山人詩文』（１９６１）を編まれたが、内容は詩存として五言律詩七篇、五言絶句二篇、七言律詩一二篇、七言絶詩三篇を挙げ、また文存としては題跋一一則のほか二条を挙げるにとどまる。
　また穆孝天・許佳瓊『�ｹ石如研究資料』（１９８８）には、詩存七一篇、詞存五篇、文存八篇、書札六件を載せる。両者とも刻印・書幅・尺牘より採録したものである。
�A資料�T�ｹ石如作品の形態による分類、参照。
�B篆刻は、文彭・何震に代表される徽派、丁敬に代表される浙派に多くの印人を排出した。これらの印人の書法作品は、隷書に各人の独自性を表現するものの篆書を書作の中心にするものはなかった。
　また白文は漢印に依り、朱文は玉箸篆に依ると言う徽派・浙派ののちに形骸化された印風を書法刻印一致によって一変させた�ｹの印風は、皖派また�ｹ派と言われる。




９．�ｹ書における隷書
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　�ｹの生涯を傾注凝宿した刻印書作品は、稿者の調査によれば三二九件が確認できる。このうち刻印は二〇八件で六割ほど（63.2%）を占める。隷書四四件（13.4%）・篆書（古文を含む）三八件（11.6%）・行書（行草書を含む）二八件（8.5%）・楷書一一件（3.3%）である。詳しくは資料�T�ｹ石如作品の形態による分類を参照願いたい。
　生涯を通しての売芸の中心であった刻印は、無紀年作品が一八五件で、多くが制作年の判明しないものである。これは�ｹに限られたことではなく、作品依頼が多くなればなるほど款識が書かれることは少なくなるのが通例である。款識は、作者の署名が最小内容で、これに制作年時、依頼者、制作の事情・状況などが付加される。款識を読むことによって、作品の由来因縁を知ることができる重要内容である。ところが作品依頼が集中する人気作家になると、この款識が短文になり、場合によっては制作者の署名のみというのもまま見受けられることである。�ｹとほぼ同時代の伊秉綬�@また陳鴻寿�Aなどは作品依頼が集中する人気作家で数多く作品を確認することができるが、署名があるのみで款識によって制作年を知りえない作品が多くを占める。
　刻印を除いて�ｹ書を検討すると隷書がもっとも多い、ついで篆書（古文を含む）・行書（行草書を含む）・楷書の順である。�ｹ書において、隷書はもっとも得意とするところであり、篆書と共に一番の表芸といって良いものである。
　�ｹの隷書作品は、四四件が確認できる。このうち有紀年作品（制作年の書かれているもの）二六件の内容は、四〇歳代三件、五〇歳代一一件、六〇歳代（六三歳までの四年間のみ）一二件がある。無紀年作品（制作年の書かれていないもの）は一八件がある。この無紀年作品が多いのも隷書作品の顕著な傾向で、隷書作品の四四件中の四割ほど（40.9%）にあたる。これは作品依頼が集中したことを裏付けるものであり、当時においての世評も隷書に集まったと考えられる。前述の包世臣が述べた神品としての古隷と楷書、妙品上としての八分と篆書という評価は、作例からも証明されるものである。
　なお楷書については作例がもっとも少なく、当時の世評と後世の評価が一致しないものである。�ｹの楷書については、趙之謙�Bが「正書は、……唐以後の一点の習気無し。故に貴ぶべし。」……楷書は唐以後の悪態がない、だから優れているのだ。……という跋文�Cを残して、改めて楷書に評価を与えていることは注意される。

�@号、墨卿。１７５４〜１８１５　良官として民衆から敬慕を集めた。中鋒による独特な書を書いた。
�A号、曼生。１７６８〜１８２２　清貧を守り、文人として趣味人であった。自製砂壷は、曼生壷と称される。
�B号、悲盦。１８２９〜１８８４　北碑を学んで独自のものがあり、北魏書と呼ばれた。�C制作年が４９歳から５３歳に推定される冊頁（七開）楷書「陶弘景答謝中書書」の趙之謙跋文。


１０．�ｹ書における『詩経』大雅抑篇
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　�ｹ書の文章内容は、自作詩や聯語を除いて文章内容を検討すると、経学（儒学）に関するもの�@、文学に関するもの�A、逸文に関するもの�B、逸士の伝記に関するもの�C、鑑戒に関するもの�D、仏教に関するもの�Eを挙げることができる。
　経学に関するものは、『易経』『詩経』に限られるようである。
　文学に関するものは、蘇軾・欧陽脩・司馬光など宋人の文学について親しんでいる。
　逸文に関するものは、埋もれた文章を積極的に残そうとする行為であり、�ｹの学問への姿勢が伺える。
　逸士の伝記に関するものは、�ｹ自身が官途には就かず生涯布衣であったことから、市井の人々に関心が向けられたことと思われる。�ｹ自身の何者にも拘束されない精神の開放と孤独からの共鳴が感じられる。
　鑑戒に関するものは宋学の張載・程頤・朱熹について多くあり、文学での関心した内容と一致している。篆書隷書という荘重な書体を得意とした�ｹ書にふさわしい内容と考えられる。

　四書五経�Fは文人の必須の教養科目であるが、�ｹの書作においては『易経』と『詩経』に限られているようである。とくに『易経』については一再ならず取り上げており、関心の高さを示している。
　これに次ぐものが『詩経』で、本件にさきがけて四九歳（１７９１）四屏篆書『詩経』南陔篇がある。この南陔篇は、『詩経』に篇名があるのみで本文が伝わらない逸文で、後人が補った文章は『文選』『古詩源』に載せられる。�ｹ書において、こうした逸文に類する文章を書く傾向は四六歳（１７８８）六屏篆書『梅国記』、四九歳（１７９１）四屏篆書『詩経』南陔篇、五八歳から五九歳に推定される立幅隷書『経鉏堂雑志』、六二歳（１８０４）篆書『管子』弟子職などにみられる。
　『詩経』には三〇五篇を収める。三〇五篇は、国風一六〇篇・小雅八〇篇（うち六篇は篇名のみ）・大雅（三一篇）・頌四〇篇がある。内容は、国風が各国の民謡、小雅・大雅が宮廷の音楽、頌が宗廟祭祀の楽歌である。この中でも大雅は、周の祖先から文王・武王にいたる歴代を頌徳し、子孫を鑑戒し、天子を祝福する内容を持つ宮廷の音楽歌謡である。
　大雅三一篇は、文王之什一〇篇・生民之什一〇篇・蕩之什一一篇から構成される。本件の抑篇は、蕩之什一一篇に含まれるもので、衛の武公がみずから自警した詩とされる。目加田誠氏は、抑篇について……周室の老父が年若い王を誡しめた歌で、衛の武公もそれを人に歌わせて、自分のいましめとしたものと見るべきであろう。（『新釈　詩経』目加田誠　１９５４　岩波書店）……と指摘されている。�ｹ書の文章内容については、始めに指摘した通り内容に共通した傾向が見られるが、本件の『詩経』大雅抑篇についても鑑戒の内容を持ち、�ｹの好んだ文章の一つと考えられるものである。

�@経学に関する作品
・三九歳（１７８１）立幅篆書　臨李陽冰『周易』謙卦がある。
・三九歳（１７８１）立幅篆書『周易』説卦がある。
・五五歳（１７９７）隷書冊頁『詩経』大雅抑篇がある。（本件）
・六三歳（１８０５）六屏隷書『周易』謙卦がある。
�A文学に関する作品
・四一歳（１７８３）刻印『江流有聲斷岸千尺』は蘇軾の語である。
・四一歳（１７８３）刻印『新篁補舊竹』は欧陽脩にちなむ語である。
・四四歳（１７８６）冊頁隷書『司馬温公居家雜儀』残冊は司馬光の文章を書いたものである。
・四六歳（１７８８）立幅隷書「歐陽永叔入……」は欧陽脩に関しての文章である。
・四六歳（１７８８）刻印『我書意造本無法』は蘇軾の語である。
�B逸文に関する作品
・四六歳（１７８８）に推定される六屏篆書『梅国記』は、出典の不明なものである。中田勇次郎先生は、六朝の神怪小説と指摘されている。（『梅国記』作品解説　『書道藝術』第一〇巻　中央公論社　１９７６）
・四九歳（１７９１）四屏篆書『詩経』南陔篇は、『詩経』に篇名のみが伝わるもので逸文である。これを後人が補って『文選』『古詩源』に載せられる。
・五八歳から五九歳に推定される立幅隷書『経鉏堂雑志』（宋・倪思）は、出典の不明なものである。
・六二歳（１８０４）篆書『管子』弟子職がある。管仲の作と言われるが、後代の仮託や増補が多いとされる。
�C逸士の伝記に関する作品
・四八歳（１７９０）四屏四体書があるが周勰・劉慧斐・周續之・祁嘉の小伝であり、四人の逸士の伝記を書いている。
・五五歳から五八歳に推定される巻子行草書『水滸伝』序がある。『水滸伝』は、郡盗を題材にした通俗小説である。
・６０歳（１８０２）慧遠伝。東晋のとき、白蓮社を結社した。
�D鑑戒に関する作品
・四九歳（１７９１）四屏篆書『程子四箴』は、宋学の碩儒で程頤（１０３３〜１１０７）の文章を書いたものである。
・四九歳から五三歳に推定される四屏隷書『山静胡先生四箴』は、胡山静の四箴を書いたものである。胡山静については不詳。
・五七歳（１７９９）立幅篆書『朱文公四斎銘』は、朱熹（１１３０〜１２００）の四斎銘を書いたものである。
・五八歳（１８００）五屏（六屏）篆書『朱文公四斎銘』は、宋学の碩儒で朱熹の四斎銘を書いたものである。
・六〇歳（１８０２）横幅隷書『崔子玉座右銘』は、『文選』に載せる。
・六二歳（１８０４）立幅隷書『淮南子』尭戒がある。『淮南子』『古詩源』に載せる。
・六三歳（１８０５）六屏篆書『程伊川非礼物言箴』がある。程頤の文章を書いたものである。
・六三歳（１８０５）八屏隷書『張氏東銘』がある。宋学の先駆者である張載（１０２０〜１０７７）の『東銘』を書いたものである。
�E仏教に関する作品
・六一歳（１８０３）篆書『般若波羅密多心経』がある。
�F四書、『大学』『中庸』『論語』『孟子』。五経、『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』。


１１．結語
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　本稿は、�ｹ石如　隷書『詩経』大雅抑篇を対象とし、�ｹの書作の内容（異体字の使用）・�ｹの書作における隷書とその評価・�ｹの文芸と書作内容について検討を加えた。
　�ｹの書作の内容（異体字の使用）については、原件写真を得なかったために第四開から第一三開までについて紹介しえなかったことは残念である。
　�ｹの書作における隷書とその評価は、�ｹの隷書の変遷を書例を示して具体的に指摘したかったが、内容が豊富なため本稿に含めなかった。別に稿を草したい。
　�ｹの文芸と書作内容については、�ｹ自身の著作がないために経学・文学とも明確にしえない。これらを補うために書作の内容から、その学問を推察することになる。古典テキストまた自作文書・自詠詩から書作が行なわれるが、古典テキストについては典拠を知り得るものが多いことから検討を試みた。また、自作文書・自詠詩については複数の古典を背景として表現されることから考察には十分な検討が必要であり本稿では触れていない。これは今後の課題としたい。
（２００５年１０月１７日加筆訂正）


〈参考文献〉
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―中文―
『隷弁』　顧靄吉
『玉煙堂本　隷弁』（１７１８）　項絪
『隷法彙纂』　項懐述
『芸舟双輯』（１８３０）　包世臣
『詩集伝』（１９６１）　香港中華書局
『�ｹ石如法書選集』（１９６３）　�ｹ以蟄
『�ｹ石如研究資料』（１９８８）　穆孝天・許佳瓊　人民美術出版社

―日文―
『新釈　詩経』（１９５４）　目加田誠　岩波書店
『完白山人詩文』（１９６１）　西川寧　（『西川寧著作集』９　１９９２　二玄社　所載）
『槐安居楽事』（１９６４）　求龍堂
『高島菊次郎氏寄贈中国美術展目録』（１９６５）　東京国立博物館
『書道藝術』第一〇巻（１９７６）　中央公論社
『�ｹ石如（有紀年）作品目録』（１９９８）　遠藤昌弘　（『大東　書道研究』７　大東文化大学書道研究所　所載）



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