�ｹ石如詩二首を読む―その推敲の変遷と文学について―
（人物論・作品論・文学論）

遠藤昌弘


目次
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１　本稿における�ｹ詩二首について
２・�T　�ｹ石如「月当頭夕眺京口江楼」詩について
２・�U　�ｹ石如「登京口楼」詩について
３　�ｹ書作品にみる自詠詩揮毫の特徴
４　�ｹ四六歳までの作品における詩文典拠の点検
５　�ｹ詩における文学の起点
　　　

はじめに
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　�ｹ石如（１７４３―１８０５）は、清朝の乾隆中期より嘉慶初期に活躍し、刻印・書をもっとも得意とした文人として高く評価されている。印は近代篆刻の開祖として、また書は金石書法の具現者として、とくに刻印・篆書・隷書作品には最高の評価が与えられている。のちに�ｹの金石書法を継承した、呉煕載�@・趙之謙�A・呉昌碩�Bなどに強い影響を与えた。くわえて彼らの残した刻印・書は、�ｹの刻印・書を形而下に摸倣するというものではなく、あくまでも�ｹの精神を反映し継承した形而上の表現であった。型（書風）の継承に終始し萎縮形骸化して堕してゆく従来の師承の展開とは、全く異なったものになったことは特記すべきことである。
稿者は過去において�ｹ研究を行い、以下四件を発表した。
・�ｹ石如（有紀年）作品目録（『大東書道研究』第７号所収　１９９９　大東文化大学書道研究所）
・�ｹ石如　隷書冊頁『詩経』大雅抑篇について（『駒沢女子大学研究紀要』第６号所収　１９９９　駒沢女子大学）
・�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について（『大東書道研究』第８号所収　２０００　前同）
・�ｹ石如　行書『詩稿冊』について（『大東書道研究』第１０号所収２００２　前同）
　今回は、平成一二年（２０００）一月の『中国書法名品展』（謙慎書道会主催）によって初めて紹介された�ｹ石如四六歳―「月当頭夕眺京口江楼」詩　行書立幅―と、あわせて同年同時期の詠詩になる―「登京口楼」詩―についても併せて論述した。�ｹ研究は�ｹ自身に公刊された著作が伝存しないことから、内的真相への究明が積極的に行なわれず、これを補うには今日みることのできる作品中の詩文の研究が何より必要である。本稿でとくに取り上げた七言律詩二首は、�ｹの文学を知るうえで現在確認できる最初期の自詠詩であり、これ以後の作品に刻され書かれた文学を検討するうえでの起点となるものである。従来の�ｹ論は、刻印・書についての表現様式に対して詳細な研究が行なわれ論じられているが、その文学については詩文の紹介に留まっているようである。そこで本稿では、�ｹ詩を鑑賞し文学の背景から�ｹ精神の真相を明らかにすることを目的に論述する。

　本稿の執筆にあたり個人様・団体様より関係資料のご提供、またご教示を得ました。ここに深く感謝申しあげます。
　とくに小林斗盦先生には作品図版掲載にあたりご高配を頂きました、ここに誌して厚く御礼申し上げます。

�@呉煕載（１７９９―１８７０）初名は廷颺。字は煕載、号は譲之。五〇歳以後、字を名とする。江蘇省儀徴の人。諸生となる。包世臣に師事し、�ｹ石如を学び刻印書画をよくする。著に『通鑑地理今釈稿』『晋銅鼓斎印存』『師慎軒印譜』がある。（『広印人伝』『墨林今話』『書画輯略』『揚州画苑録』）
�A趙之謙（１８２９―１８８４）字は益甫、号は�ﾋ叔。浙江省会稽の人。咸豊九年（１８５９）の挙人、官は奉新知県。刻印詩文書画をよくし、金石研究を行なう。�ｹ石如を学び、また北碑を習った独風は北魏書と称される。著に『二金蜨堂印譜』『悲盦居士詩賸』『六朝別字』『補寰宇訪碑録』がある。（『寒松閣談芸瑣録』『清朝書画家筆録』『清画家詩史』）
�B呉昌碩（１８４４―１９２７）初名は俊。字は昌碩、号は缶廬。浙江省安吉の人。刻印詩文書画をよくする。『石鼓文』を専習した金石書法は、とくに絶賛された。西泠印社の社長となり芸苑を指導する。著に『缶廬詩存』『缶廬印存』『呉昌碩画集』がある。（『広印人伝』『寒松閣談芸瑣録』『清画家詩史』『海上墨林』）

１　本稿における�ｹ詩二首について
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　本稿では、行書「月当頭夕眺京口江楼」詩立幅、および行書「登京口楼」詩立幅の作品から�ｹ詩二首を取り上げた。
　行書「月当頭夕眺京口江楼」詩立幅（本紙113.2cm×58.4cm）は、『中国書法名品展』図録（２０００）に掲載されている。使用款印の「古浣子」印（§４�@）・「�ｹ琰」印（§５）「石如」印（§６）はともに―�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について―第４章において稿者が調査・指摘したとおり、§４印と§６印は�ｹ四六歳の作品に限って使用され、§５印は�ｹ四〇歳から四六歳の間に用いられた自用印である。このことは、本件においても裏付けられた。なお本件は、―�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について―の調査・執筆の時点では、未調査・未収録のものである。
　行書「登京口楼」詩立幅（本紙128.5cm×33.0cm）は、『�ｹ石如書法選集』（文物出版社　１９６３）、また『書道藝術』第一〇巻（中央公論社　１９７６）に掲載されている。『�ｹ石如書法選集』の目次には、周培源氏の所蔵であることが記される。使用款印には、「浮大白読異書」印（§７）・「�ｹ琰」印（§８）「石如」印（§９）が押印される。これらの自用印についても―�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について―第４章において使用時期・使用作品などの調査をして概要を得ている。
　�ｹには公刊された詩集が伝存せず、今日見ることができるものは、�ｹ没後一三六年後に西川寧氏が『書菀』誌上に掲載された『完白山人詩文』が最初のものである。こののち中国では穆孝天・許佳瓊氏『�ｹ石如研究資料』（１９８８）が、おなじ年にわが国では高畑常信氏『�ｹ石如の書と篆刻』（１９８８）が上梓して、�ｹ詩集を載せている。これらのいずれもが、�ｹを敬慕する人々によって書幅・冊頁・巻子などの�ｹ真蹟・文献資料などから採録されたものである。この詳細については、―�ｹ石如　行書『詩稿冊』について―第６章で述べた。本稿での採詩にあたっても、原典は�ｹの書幅等の作品を第一に依拠するものである。書幅等の作例から引用する場合、詠詩の時期と作品揮毫の時期とが同時とは限らないことは間々見られることである。この点については、作品款文などから留意して検討する。

�@文中の款印に付される（§）記号は、―�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について―と一致する。



２・�T　�ｹ石如「月当頭夕眺京口江楼」詩について
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　�ｹ石如「月当頭夕眺京口江楼」詩は、本稿執筆時点での確認においては�ｹ四六歳・乾隆五六年（１７８８）のときの行書立幅（『中国書法名品展』図録　所収）として初めて揮毫された（図�T参照）。

―初稿―
危樓高聳豁雙眸。接海波濤滾白鷗。
是水是天光一片。今年今夕月當頭。
螺浮��瀣疑三島。玉立嵯峨認五州。
萬點蒼山茅屋小。凭欄不禁使人愁。

　行書立幅の作品款文には、……戊申仲冬。望夕觀化樓夜眺。古浣�ｹ琰未定稿。……とある。〈戊申仲冬〉は、�ｹ四六歳・乾隆五三年（１７８８）旧暦一一月にあたる。〈望夕觀化樓夜眺〉は詩題である。また「未定稿」とあることから、推敲が十分なされていないことが暗示され詠詩ののち間もない時期の揮毫と思われる。
　本詩は、行書立幅（図�T）揮毫から四年後にあたる�ｹ五〇歳・乾隆五七年（１７９２）冬至二日前に揮毫された『詩稿冊』に載せられている。『詩稿冊』については、―�ｹ石如　行書『詩稿冊』について―において詳細に論考した。『詩稿冊』二一題のうち、本詩は第四題にある。これには〈月當頭夕眺京口江樓〉と題して、初稿となった行書立幅（図�T）款文にある〈望夕觀化樓夜眺〉を改めている。『詩稿冊』は、�ｹ自身によって自詠詩二一題三六首を揮毫したもので、�ｹ真蹟詩集として知られる現在唯一の資料である。平成一二年の『中国書法名品展』に展示されたのが始めての公開となり図録�@に載せられたものであり、これ以前の�ｹ関係書籍・図録・資料等には収録されていない。

�@『中国書画名品展』図録では、「月当頭夕眺京口江楼軸」を表題としている。

　�ｹ五〇歳『詩稿冊』では詩題を「月当頭夕眺京口江楼」とし、以下の詩文となっている。

―再稿（訂正）―
危樓高聳豁雙眸。倒（・）海波濤滾白漚（・）。
是水是天光一片。今年今夕月當頭。
螺浮��瀣疑三島。玉立嵯峨認五州。
萬點蒼山茅屋小。凭欄不禁使人愁。

　詩文中に施した付点（・）の文字が、原作と考えられる�ｹ四六歳のときの行書立幅からのちの推敲の跡である。この再稿（訂正稿）に従って以下に訓読・語釈・意訳を試みる。

（詩の訓読）
　詩題「月は頭に當る夕べの眺、京口の江樓にて。」
―起聯―危樓は高く聳ゑ、雙眸を豁かさしめ、倒海の波濤は、白漚を滾かさしむ。
―承聯―是れ水是れ天、光一片。今年今夕、月頭に當る。
―転聯―螺は��瀣を浮ばせば、三島を疑し。玉立嵯峨として、五州を認む。
―結聯―萬點たる蒼山、茅屋は小たり。欄に凭れて禁ぜず、人をして愁使むるを。

（詩の語釈）
　詩題にある「月当頭夕眺京口江楼」の京口は、今の江蘇省鎮江県、古名は丹徒といった。省の中央に位置する鎮江は、京杭運河が長江と交差する港町である。古くから水上交通の要衝として開け、三国時代には呉の孫権がこの街を都とした。金山・焦山・北固山は京口三山と呼ばれ、三山ともに標高は低いものの長江のほとりにあるため印象として高く美しい景観を作り出している。金山は標高四四メートルの小山で、山上には仏教禅宗の金山寺が建つ。焦山は長江に浮かぶ小島で標高七一メートル。後漢時代に創建された定彗寺と、山頂に建つ吸江楼がある。標高五二メートルの北固山は、甘露寺が有名である。寺内の凌雲亭・狼石など、すべて三国時代の劉備に係わるものといわれる。唐の天宝年間、北固山に宿泊した遣唐使の阿倍仲麻呂の朗詠による ｢天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも｣ は夙に有名である。
　詩中の語句の〈危樓〉は、高楼に同じ、たかどの。〈滾〉は、ころがるさま、わきかえるさまをいう。〈漚〉は、あわのこと、水泡。螺は、にな、にしのこと。〈��瀣〉は、『楚辞』東方朔（七諌）には「含――以長生。」とある。また『楚辞』遠遊には「餐六気而飲――兮。漱正陽而含朝霞。」とある。北方の夜半の空気、また露気。仙人の食べるものをいう。〈三島〉は、仙人の住むという三つの海島。三壷・三神山と同じ。『神仙伝』には「海上有三神山。曰蓬萊。曰方丈。曰瀛州。謂之三島。」とある。ここでは、金山・焦山・北固山を指す。〈玉立〉は、美しくたつさまをいう。〈嵯峨〉は、高く突立って険しいさまをいう。『楚辞』淮南小王（招隠士）には「山氣山龍山從兮石――。」とある。〈五州〉は、山名。江蘇省鎮江県の西。『鎮江府志』には「相傳。登山絶頂。望見――。故名。梁武帝幸此。輦道尚存。」とある。

（詩の意訳）
　詩題「月は頭に当る夕べの眺、京口の江楼にて。」
―起聯―危楼は高く聳えたそのさまは、あまりの壮観さのために、わたしの二つ眸をぱっちりとさせ、さかまく海の波涛は白いあわを混ぜっ返している。
―承聯―眼下に見えるの川の流れ、眼上に見える天空、そこに光が一片映し出されている。この年のこの夕べ、月はわたしの頭の上にある。
―転聯―言い伝えの螺が夜気を浮かばせれば、まるで仙人の住むという三神島のよう。うつくしく立って険しく切り立っているのは、五州の山なのだろう。
―結聯―わたしの眼前に遠くまで広がる幾つも幾つもの点を重ねた蒼山、そして茅屋はとても小さく見える。欄に凭れて我知らず、旅愁が染み入ってくる。

（詩の背景）
　「月当頭夕眺京口江楼」詩には、高楼からの夕景の眺望という地上の壮観と、過客である�ｹの旅愁を静寂のうちに詠んだものである。起聯では、遠景から近景に迫り、楼閣の高さと波涛の激しさを表現する。承聯では、さらに広大な海面・天空、そして一条の月光が�ｹ自身を照らすと言う劇的な場面展開である。展聯では、緩やかに時が過ぎ眼前の景色が靄霞となり三島・五州を浮かび上がらせる幻想の世界である。結聯では、夜闇が広がり�ｹ自身を包み込んでゆくと大自然に対峙する極めて小さな存在であることを我知らず認めた�ｹの旅愁を誘い込む様子である。

（�ｹの推敲）
　詩文中、付点を施した文字に異同〈第二句（接→倒・鷗→漚）〉がある。
　接海と倒海は、接（あわさる）の平面的描写に比べて倒（さかまく）のほうが動的で劇的な意味になる。接は葉韻と洽韻の属の二韻（ともに仄声）があるが、まじわる・つぐの意であれば葉韻の属、柩のかざりの意であれば洽韻の属である。また倒は皓韻と号韻の属二韻（ともに仄声）があり、詩中のさかまくの意であれば号韻の属にあたる。接・倒ともに仄声であることには変わりなく、ここでの�ｹの推敲は意味の上からの置き換えである。
　白鴎と白漚は、鴎が平声で尤韻の属であり、漚はひたす意であれば仄声で宥韻の属で、あわの意であれば平声で尤韻の属である。ここではあわの意で平声（尤韻の属）となり、鴎と漚は同声であり句法・押韻上の齟齬はない。このことから意味の上からの推敲と思われるが、章句の〈滾白漚〉の滾は、ころがる・わきかえるの意であることから鴎では意味が通じず漚のほうが妥当である。このことから、鴎は�ｹの誤写の可能性が推測される。

―付記１―
　本詩は、西川寧氏『完白山人詩文』（『西川寧著作集』第九巻　１９９２　二玄社　所収）にも載せられている。詩題は〈月當頭夕眺京口江樓〉とあり、�ｹ五〇歳『詩稿冊』と同じである。

危樓高聳豁雙眸。倒海波濤滾白漚。
是水是天光一片。今年今夕月當頭。
螺浮��瀣疑三島。玉立嵯峨認五州。
萬點蒼山茅屋小。憑（・）欄不禁使人愁。

　出典は謝堃『蘭言集』とある。詩文中、付点を施した文字に異同〈第八句（凭→憑）〉がある。凭は、憑の俗字とされ、別体ではあるが同字として扱われるものである。これは謝堃が採詩した折に、文字を正字である憑に置き換えた可能性も考えられる。

―付記２―
　穆孝天・許佳瓊氏『�ｹ石如研究資料』（人民美術出版社　１９８８）第三編・第一章の第七一題にも載せられている。詩題は〈月當頭夕眺京口江樓〉とあり、�ｹ五〇歳『詩稿冊』と同じである。

危樓高聳豁雙眸。到（・）海波濤滾白鷗（・）。
是水是天光一片。今年今夕月當頭。
螺浮��瀣疑三島。玉立嵯峨認五洲。
萬點蒼山茅屋小。凭欄不禁使人愁。

　詩文中、付点を施した文字に異同〈第二句（倒→到・漚→鷗）、第六句（州→洲）〉があるが、典拠を明記していない。
　倒は仄声であるが意味よって韻の属が分かれる。たおれる・たおす意では、皓韻の属であり、ひっくりかえす・さかさまの意では号韻の属となる。到は、いたる・とどくの意で、号韻の属である。ここではともに平声となり押韻上の問題はないので、詩の意味の上からすると倒が妥当である。
　白鴎とするのは、�ｹ四六歳行書立幅と同じである。この点については本稿２・�T（�ｹの推敲）で詳しく述べたとおり、白漚が妥当と思われる。
　州は平声で尤韻の属、洲は平声で尤韻の属である。またサンズイが付く、付かないの区別があるが同意の文字であり、句法・文字使用からの問題はない。『�ｹ石如研究資料』には誤植も少なからず見受けられるので単純な校正ミスの可能性もあるが、典拠が不明であり検討不能である点は如何ともしがたい。



２・�U　�ｹ石如「登京口楼」詩について
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　�ｹ石如「登京口楼」詩は、本稿執筆時点での確認において�ｹ四六歳・乾隆五三年（１７８８）のときの行書立幅（『�ｹ石如書法選集』所収）として初めて揮毫された（図�U参照）。

―初稿―
飛甍複閣壓奔流。天下江山第一州。
天子萬騎城北顧。神仙三島海東頭。
雲開鐵甕迎朝日。風落金鰲泊釣舟。
古往今來多少事。不堪杯酒獨登樓。

　行書立幅の作品款文には、……登京口樓。戊申長至後一日、稿塵。蘭泉先生郢政。古浣、�ｹ琰。未定艸。……とある。文中にある〈未定艸〉の語から、�ｹ自身はまだ十分に推敲が行なわれていないこと、また詠詩からほどなく揮毫されたであろうことが推測される。〈蘭泉先生〉は、畢夢熊�@のこと。
　本詩は、行書立幅（図�U）揮毫から四年後にあたる�ｹ五〇歳・乾隆五七年（１７９２）に揮毫された『詩稿冊』に載せられた。『詩稿冊』二一題のうち、本詩は第五題にある。これには〈登北固樓〉と題して、初稿となった行書立幅款文にある〈登京口樓〉を改めている。北固山については、本稿２・�T（詩の語釈）参照。

―再稿（訂正）―
飛甍複閣壓奔流。宇（・）内（・）江山第一州。
天子六（・）龍（・）城北顧。神僊（・）三島海東頭。
雲開鐵甕迎朝日。風落金鼇（・）泊釣舟。
古往今來多少事。不堪杯酒獨登樓。

となっている。詩文中の付点を施した文字が、原作と考えられる�ｹ四六歳（乾隆五三年）からの推敲の跡である。この再稿（訂正）に従って以下に訓読・語釈・意訳を試みる。

（詩の訓読）
　詩題「北固樓に登る。」
―起聯―飛甍複閣、奔流を壓す。宇内江山、第一州。
―承聯―天子六龍、城の北顧。神僊三島、海東の頭。
―転聯―雲開ける鐵甕は、朝日を迎ふ。風落れば金鼇、泊りし釣舟。
―結聯―古往今來、多少の事。杯酒するに堪えずして、獨り樓に登る。

（詩の語釈）
　詩題にある〈登北固樓〉の北固は、江蘇省丹徒県の北にある北固山のこと。梁の武帝が登山した際に、京口の壮観として、名を北顧と改めた故事がある。龍王廟・北顧亭がある。本稿２・�T（詩の語釈）に詳述した。
　詩中の語句の〈甍〉は、いらか。瓦で葺いた屋根をいう。〈飛甍〉は、たかいいらか。〈宇内〉は、四海・海内・天下とおなじ意。〈江山〉は、かわとやま。〈宇内江山第一州〉は、六朝時代に梁武帝の蕭衍が北固山を遊覧した時、「天下第一江山」と賛嘆した有名な故事に拠るもの。〈天子〉は、ここでは北固山の故事にある梁武帝を指す。〈六龍〉は、六飛・六騑に同じ。天子の車に駕する六頭の馬。転じて天子の車駕。〈三島〉は、仙人の住むという三つの海島。三壷・三神仙と同じ。『神仙伝』には「海上有三神山。曰蓬萊。曰方丈。曰瀛州。謂之三島。」とある。ここでは、金山・焦山・北固山を指す。〈雲開〉は、空が晴れるさま。〈鐵甕〉は、城の名。江蘇省鎮江県の子城。『鎮江府志』には「子城。呉大帝所築。内外甃以甓。號鐵甕城。圖經言。古號鐵甕城者。以其堅固如金城也。明洪武元年。改築甎城。而舊城倶廃。」とある。〈金鼇〉は、山名。浙江省臨海県の東南の海中。〈古往今來〉は、昔から今まで。〈多少〉は、おおい、おびただしい。〈杯酒〉は、盃の酒。酒の入った盃。

（詩の意訳）
　詩題「北固楼に登る」
―起聯―空高い瓦屋根、重なりあう楼閣は、長江の激しい流れを圧倒する。この地は（昔の梁武帝の故事にあったとおり）国中にあるすべての川と山のうちで、その天下第一の州である。
―承聯―むかし梁の武帝陛下に由来するという、この北顧楼。むこうには仙人が住むという三つの島は、海の東に頭をだしている。
―転聯―さらに遠くには雲が去って晴れ上がった空のもとの鉄甕の地は、いま朝日を迎えようとしている。風の行き進むところには金鼇の地があり、そこには釣舟が泊まっている。
―結聯―ああ、昔から今までたくさんの故事来歴があったことだ。それを思うと胸が一派になり杯の酒がすすまない、いま楼に登ってこの景色を眺め、いにしえより今を思うのはわたしただ一人だけなのだ。

（詩の背景）
　「登北固楼」詩には、�ｹの静謐な境地が詠じられている。起聯の近景から、承聯の対句表現によって中景にすすみ、転聯の対句表現によって遠景を描写している。遠近の距離を詠むことで、悠久の歴史の時間経過を含ませている。また眺望は、曙景である。早暁の靄のなかにゆっくりと浮かびでる光景であり、旭日を来迎する。〈不堪杯酒〉の句から、朝方までつづいた宴席をはなれたことが伺われる。一人静かに自己内面の思慮に没入する様子である。

（�ｹ詩の推敲）
　詩文中、付点を施した文字に異同〈第二句（天下→宇内）、第三句（萬騎→六龍）、第四句（仙→僊）、第五句（鰲→鼇）〉がある。
　天下と宇内は、意味としては同じである。押韻は二字目の下は仄声で馬韻の属で、内は意味によって三つの韻（隊韻・合韻・霽韻）があるがともに仄声である。下・内とも同声であり、句法・押韻からは問題はない。ここでは、初稿において第二句の〈天子〉と第三句の〈天下〉の天が重複したことを避けるための推敲と思われる。漢詩は短文であるので、特別に意図がない限りにおいて、同字・同句は避けるのが通例である。
　萬騎と六龍は、一万の騎兵と御輿の意味の違いもあるが、ここでは七言律詩の句法・押韻によるものと思われる。漢詩を詠むには、句法・押韻に制約があり、この点が漢詩の詠詩の難しさであり楽しみでもある。初稿における萬は押韻上の問題ないが、騎は仄声となり句法に反している（二四不同の句法、第二字と第四字は平仄が一致してはならない）。三句第二字目の子は仄声であるので、第四字目は平声でなくてはならないが騎は仄声にあたり、この点が句法に反していることになる。騎は意味によって平仄の両声を持つ、やっかいな字である。のる（騎乗など）の意では平声であり、のりうま（騎兵など）の意では仄声である。はじめ�ｹは平声のつもりで作詩したが、ここでは騎兵の意で用いていることから仄声になる。�ｹ自身気が付いたか、他者からの指摘かは不明であるが、この点を推敲の理由としてまず間違いないだろう。そこで�ｹは字句を変更して、仄声である龍をもちいて六龍に訂正し推敲したと思われる。
　仙・僊は別体であるが、意味・文字使用ともおなじもので、とくに問題はない。
　鰲・鼇は別体であるが、意味・文字使用ともおなじもので、とくに問題はない。

―付記１―
　本詩は、西川氏『完白山人詩文』にも載せられている。詩題は〈戊申秋日登北固樓作〉としている。これによって、�ｹ四六歳・乾隆五三年（戊申　１７８８）の秋の詠詩であることが明らかになった。出典は、黄賓虹先生所蔵行書墨跡とある。西川氏の記録の定本となった黄氏所蔵作品は、図録等の掲載がないため文字の様子は判然としない。

飛甍複閣壓奔流。宇内江山第一洲。
天子六龍城北顧。神僊三島海東頭。
雲開鐵甕迎朝日。風落金鼇泊釣舟。
古往今來多少事。不堪杯酒獨登樓。

　詩文中の文字は�ｹ五〇歳『詩稿冊』と同じ語句で異同はないが、詩題は�ｹ四六歳行書立幅また五〇歳『詩稿冊』ともに〈登北固樓〉とあったものが加筆され〈戊申秋日登北固樓作〉となっている。この点から、『詩稿冊』よりのちの揮毫と推測される。

―付記２―
　穆・許氏『�ｹ石如研究資料』第三編・第一章の第四七題にも載せられている。詩題は〈登北固樓〉としあり、最終稿である�ｹ五〇歳『詩稿冊』と同じである。

飛甍複閣壓奔流。宇宙（・）江山第一州。
天子六龍城北顧。神僊三島海東頭。
雲開鐵甕迎朝日。風落金鰲（・）泊釣舟。
古往今來多少事。不堪杯酒獨登樓。

　詩文中の付点を施した文字に異同〈第二句（内→宙）、第六句（鼇→鰲）〉があるが、典拠を明記していない。内は仄声で隊韻の属、宙は仄声で宥韻の属であり、ともに仄声である。宇宙は天地の広がりをいうもので、宇内・宇宙とも意味のうえでの相違はない。以上のことから句法・文字使用からも問題はない。
　鰲は、前述の付記１で述べたとおりである。鰲を用いているのは初稿の�ｹ四六歳行書立幅のみである。

�@畢夢熊（生卒不詳）字は庶男、号は蘭泉。江蘇省鎮江の人。丹徒の諸生。（『清画家詩史』『京江耆旧集』）


３　�ｹ書作品にみる自詠詩揮毫の特徴
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　すでに―２・�T�ｹ石如「月当頭夕眺京口江楼」詩について―、また―２・�U　�ｹ石如「登京口楼」詩について―において指摘したとおり、�ｹは自詠詩を複数回揮毫していることが分かる。これは―�ｹ石如　行書『詩稿冊』について―所収の―『詩稿冊』にある詩の作品揮毫例と所載文献一覧―においても記すところである。『詩稿冊』に収められた二一題三六首のうちの六題八首が二回以上揮毫され、うち一題は三回にわたって揮毫されている。
　こうした同一の詩を複数回揮毫することは、それだけ詠詩が困難し詩数が少ないことが理由と思われる。また書作品中に〈未定艸〉や〈未定稿〉の語を書していることでも理解できる。この点は慎重であったともいえるし、それだけ苦吟している証でもある。
　また、�ｹ書における制作年を書した有紀年作の割合については、―�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について―第一章において指摘した。�ｹ書作品一二五件�@のうち五四件を数え、六割程（56.8%）という多数を占めた。この点は、�ｹとほぼ同時期に活躍した陳鴻寿�Aに、陳の作品専集である『陳鴻寿の書法』（二玄社　１９９７）で比較してみると、掲載作品六七件のうち有紀年作品は一〇件で、わずかに一割五分程（14.9%）である。また�ｹに五十年ほど後人になるが何紹基�Bに、つい先ごろ開催された中国湖南省博物館蔵作品による専集である『何紹基展』図録（産経新聞社　２００４）で比較してみると、掲載作品七二件のうち有紀年作品は一七件で、わずかに二割四分程（23.6%）である。陳鴻寿・何紹基ともに高級官僚ではなかったが長く官界にあった人物で、在世当時から陳は刻印詩書画を、何は詩書をよくした人気作家であった。�ｹにおける六割におよぶ紀年の書き入れは、陳・何を含めた清朝中期・末期に活躍した多くの文人たちと比べて殊に異例である。しかし、この有紀年によって�ｹの作品の編年が他の人物に比べてはるかに容易となり、また詩の推敲の詳しい様子も知ることが可能になるのである。
　以上に述べた�ｹ作品にみる自詠詩揮毫の特徴から、本稿２・�Uで論述した「登京口楼」詩では、第一稿が�ｹ四六歳一二月立幅行書（�ｂS６―２　図�U）であり、第二稿が�ｹ五〇歳『詩稿冊』（�ｂT０―２）として詠詩の順番と推敲の内容を知ることができる。第三稿と推測されるものが、黄氏所蔵作品（�ｹ四六歳、西川氏『完白山人詩文』所収）である。
　また穆・許氏『�ｹ石如研究資料』所収のものは鰲の使用から第一稿（�ｹ四六歳冬）と第二稿（五〇歳冬）の間に揮毫されたと推測されるもので、これも含めて考えると同じ詩を四度揮毫していることになる。
　詩題においては、「登京口楼」（第一稿　�ｹ四六歳冬）から「登北固樓」（第二稿　�ｹ五〇歳冬）をへて、「戊申秋日登北固樓作」（第三稿　�ｹ五〇歳冬以後）と変更していることも知ることができる。
　さらに第三稿の詩題に〈戊申秋日〉とあったことによって、実際の詠詩の時期が�ｹ四六歳・乾隆五三年（１７８８）の旧暦七月から九月までに限定でき、詠詩・作品揮毫の状況を知る重要な手がかりとなったことも指摘できる。

�@件数は、作品形態（立幅・対幅・四屏・六屏・横披・冊頁・巻子など）に係わらず一件として数えた。
�A陳鴻寿（１７６８―１８２２）字は之恭、号は曼生。浙江省銭唐の人。嘉慶六年（１８０１）の抜貢、官は淮南同知。刻印詩文書画をよくする。刻印は西泠八家に挙げられる。砂壺をつくり、曼生壺として珍重される。著に『桑連理館詩集』『種楡仙館印譜』がある。（『墨林今話』『桐蔭論画』『畊硯田斎筆記』『広印人伝』『清画家詩史』）
�B何紹基（１７９９―１８７３）字は子貞、号は東洲居士・蝯叟。湖南省道州の人。道光一六年（１８３６）の進士、官は編修。説文考訂の学に詳しく、草書をよくして一代に冠した。著に『説文段註駁』『詩文集』がある。（『印林跋語』『海上墨林』『韜養斎筆記』『益州書画録』）


４　�ｹ四六歳までの作品における詩文典拠の点検
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　稿者は�ｹの書作品の調査して、―�ｹ石如（有記年）作品目録―、また―�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について―において考察を加えた。その結果、�ｹ四六歳以前の有記年の刻印は一八件、書作品は八件で、計二六件が確認できるのみである。これら有紀年作品の他にも、年代を限定して推定できる刻印・書があるが紀年が無いことから、ここでは取り扱わないことにする。

３６歳（乾隆４３年、戊戌、１７７８）
・刻印『太羹玄酒』『聊浮游以逍遥』（両面印　�ｂR６―１�@）『聊浮游以逍遥』の出典／『楚辞』離騒、摸刻出典／甘暘・梁袠

３８歳（乾隆４５年、庚子、１７８０）
・刻印『半千閣』（�ｂR８―１）依頼者／梅鏐
・刻印『清素堂』（�ｂR８―２）依頼者／梅鏐
・刻印『承學堂』『兩地青蹊』（両面印　�ｂR８―３）
・刻印『蘭爲知己』（�ｂR８―４）
・刻印　印面欠（側款のみ　�ｂR８―５）依頼者／徐公威

３９歳（乾隆４６年、辛丑、１７８１）
・立幅―篆書『周易』謙（�ｂR９―１）
・立幅―篆書『周易』説卦伝（�ｂR９―２）
・刻印『淫讀古文甘聞異言』（�ｂR９―３）出典／王充『論衡』自紀篇
・刻印『意與古會』（�ｂR９―４）依頼者／畢夢熊

４０歳（乾隆４７年、壬寅、１７８２）
・立幅―楷書『楚辞』九歌―東皇太一・雲中君（�ｂS０―１）

４１歳（乾隆４８年、癸卯、１７８３）
・刻印『江流有聲斷岸千尺』（�ｂS１―１）出典／蘇軾「赤壁賦」
・刻印『被明月兮佩寳璐駕青虯兮驂白螭』（�ｂS１―２）出典／『楚辞』九章・渉江
・刻印『新篁補舊竹』（�ｂS１―３）関係古典／欧陽脩「秋声賦」
・刻印『筆歌墨舞』（�ｂS１―４）依頼者／畢夢熊

４４歳（乾隆５１年、丙午、１７８６）
・双鈎　篆書　臨『会稽刻石』（�ｂS４―１）
・冊頁　隷書『司馬温公居家雑儀』（二〇条のうち残冊八条　�ｂS４―２）出典／司馬光『書儀』

４６歳（乾隆５３年、戊申、１７８８）
・立幅　隷書「歐陽永叔入……」（�ｂS６―１）関係古典／欧陽脩
・立幅　行書「危樓高聳豁……」（�ｂS６―２）―本稿　２・�T―
・立幅　草書「飛甍複閣厭……」（�ｂS６―３）―本稿　２・�U―
・刻印『我書意造本無法』（�ｂS６―４）出典／蘇軾「石蒼舒酔墨堂」詩、依頼者／葉天賜
・刻印『卻將八法冩湘君』（�ｂS６―５）関連古典／『楚辞』九歌―湘君、依頼者／朱草詩林主人（人物不詳）
・刻印『衆香之祖』（�ｂS６―６）依頼者／羅聘
・刻印『山中白雲』（�ｂS６―７）依頼者／羅聘
・刻印『闕里孔氏雩谷攷蔵金石書畫之記』（�ｂS６―８）依頼者／孔雩谷
・刻印『覚非盦主』（�ｂS６―９）依頼者／頤堃

　以上が、�ｹ四六歳以前の作品であるが、三七歳・四二歳・四三歳・四五歳の作品は確認できていない。三七歳一一月に葉天賜�Aから七言詩一首対聯を贈られた記述（『�ｹ石如研究資料』年譜）があるが、四二歳・四三歳・四五歳については文献にも記述が見あたらず、今後の新資料の公開が待たれるところである。

　前述した�ｹ四六歳までの作品のうち、文学古典を内容としたものには以下の作品がある。

・刻印『聊浮游以逍遥』（両面印　�ｂR６―１�@）出典／『楚辞』離騒
・立幅―篆書『周易』謙（�ｂR９―１）
・立幅―篆書『周易』説卦伝（�ｂR９―２）
・刻印『淫讀古文甘聞異言』（�ｂR９―３）出典／王充『論衡』自紀篇
・立幅―楷書『楚辞』九歌―東皇太一・雲中君（�ｂS０―１）
・刻印『江流有聲斷岸千尺』（�ｂS１―１）出典／蘇軾「赤壁賦」
・刻印『被明月兮佩寳璐駕青虯兮驂白螭』（�ｂS１―２）出典／『楚辞』九章―渉江
・刻印『新篁補舊竹』（�ｂS１―３）関係古典／欧陽脩「秋声賦」
・冊頁　隷書『司馬温公居家雑儀』（二〇条のうち残冊八条　�ｂS４―２）出典／司馬光『書儀』
・立幅　隷書「歐陽永叔入……」（�ｂS６―１）関係古典／欧陽脩
・立幅　行書「危樓高聳豁……」（�ｂS６―２）―本稿　第２章―
・立幅　草書「飛甍複閣厭……」（�ｂS６―３）―本稿　第３章―
・刻印『我書意造本無法』（�ｂS６―４）出典／蘇軾「石蒼舒酔墨堂」詩、依頼者／葉天賜
　
　作品に見られる古典文学を内容としたものは、�ｹ三九歳以後に多く見られる。その内容の特徴と関連作品は、以下の通り。

１、経学に関する作品
・立幅篆書『周易』謙（関連作品　�ｂR９―１）
・立幅篆書『周易』説卦伝（同　�ｂR９―２）

２・１、古典文学に関する作品
・刻印『楚辞』離騒（同　�ｂR６―１）
・立幅楷書『楚辞』九歌（同　�ｂS０―１）
・刻印『楚辞』九章（同　�ｂS１―２）
・刻印『楚辞』九歌（同　�ｂS６―５）

２・２、宋代文学に関する作品
・刻印―欧陽脩「秋声賦」（同　�ｂS１―３）
・立幅隷書―欧陽脩（同　�ｂS６―１）
・冊頁隷書―司馬光『書儀』（同　�ｂS４―２）
・刻印―蘇軾「赤壁賦」（同　�ｂS１―１）
・刻印―蘇軾「石蒼舒酔墨堂」詩（同　�ｂS６―４）

３、鑑戒に関する作品
・刻印―王充『論衡』自紀篇（�ｂR９―３）

　以上は�ｹの文学における原点であり、生涯にわたり影響を与えたであろうことは、�ｹ四六以後の文学背景を論述する上で十分に考慮すべきことである。
　また、特殊なものとして王充�Bの『論衡』がある。『論衡』は、世俗の虚妄を批判し真理を探求する立場から、当時流行していた天人相関説（天の意志によって自然と社会が左右されるという）や讖緯説を否定して、具体的事実にもとづく実証的な唯物論を展開する。儒学者からは異端として軽視され、その正当な評価は近代になってからのもので、�ｹがどの程度学んでいたかは不明である。�ｹの刻印（�ｂR９―３）は、その字句内容から鑑戒に関する作品に分類した。

�@文中の款印に付される（�ａj記号は、―�ｹ石如（有記年）作品目録―と一致する。
�A葉天賜（生卒不詳）。字は孔章、号は詠亭。もと安徽省歙県の人、のちに江都（江蘇省揚州）に移籍する。（『広陵詩事』『揚州画舫録』）
�B王充（２７―９１）字は仲任。会稽上虞（浙江省上虞県）の人。斑彪に学ぶ。後漢の思想家。著に『論衡』八五篇がある。（『後漢書』）

５　�ｹ詩における文学の起点
　本稿２・�Tで論述した�ｹ詩「月当頭夕眺京口江楼」では、詩中の語句の〈��瀣〉が『楚辞』東方朔篇（七諌）・遠遊篇を典拠とするものであり、また〈嵯峨〉が『楚辞』淮南小王篇（招隠士）を典拠としている。
　また先述のとおり、
・�ｹ三六歳の刻印『聊浮游以逍遥』（�ｂR６―１）出典『楚辞』離騒
・�ｹ四〇歳の立幅楷書『楚辞』九歌（東皇太一・雲中君　�ｂS０―１）
・�ｹ四一歳の刻印『被明月兮佩宝璐駕青虯兮驂白螭』（�ｂS１―２）出典『楚辞』九章（渉江）
・�ｹ四六歳の刻印『卻将八法写湘君』（�ｂS６―５）関連古典『楚辞』九歌（湘君）にも、その文学の典拠を見出すことができる。
　�ｹ四十歳代前半までの文学テーマには、主要な古典文学として『易経』『楚辞』を、宋代文学として欧陽脩・司馬光・蘇軾を挙げることができる。この中でも『楚辞』が、詠詩という�ｹの精神を最大に発揮する場面では特に大きく反映していると言えよう。
　そこで�ｹが『楚辞』に執心し、自己の詠詩に取り入れた理由を考えてみると、『楚辞』の作者である屈原の生涯に注目しないわけにはいかない。屈原は楚の王族であり、重臣でもあった人物である。当時の楚は、北方の秦に脅かされ、国家として非常に危機的な状態にあった。屈原は、国を憂いて懐王に進言を行ったが、聞き入れられないばかりか、かえって疎んぜられるようになってしまう。後に懐王は秦の張儀に騙され虜囚となり、あらたに頃襄王が即位するが、屈原はこの王にも疎んじられ追放されてしまう。放浪を重ね国家の将来を案じながら、汨羅江の淵に身を投げたと伝えられている。三十歳代後半から四六歳までの�ｹの作品には時の名士である梅鏐�@・畢夢熊�A・葉天賜�B・張恵言�C・羅聘�D、また伝記資料には梁巘�E・曹文埴�F・金榜�Gとの交流が記され、それに伴って各地を遍歴したことがわかる。こうした遍歴は、�ｹ自身の立場からみれば仕官できずに放浪する心情であり、官僚世界に安住する文人諸士とは根本的に異なる挫折に似た宿命を感じたことは想像に難くないであろう。この点から『楚辞』や屈原への精神的な同化や移入はごく自然なことであったろうと思われる。
　では�ｹは在野にあって刻印・書に生涯を傾注することを人生の究極の理想としたかというと、そうではなくて当時の文人におおむね共通する心情である、現世では唯一無二の目標として官僚任官を望んで懸命に科挙応試のために昼夜を学問に励む一方で、都会の喧騒に住みながら山中に閑居して隠士にとなることを心裡では思慕するという、現実と理想が矛盾して錯綜する心情と同軌であったことが指摘できる。
　この点について、�ｹは戸部尚書（財務大臣）曹文埴の勧誘により北京へ上京を果たしていること。包世臣�H『完白山人伝』では�ｹ四八歳（１７９０）のこととしている。また、湖広総督（湖北・湖南省両軍長官）畢沅�Iの幕友（私設秘書）になった記載がある。孫雲桂『完白山人伝』では、�ｹ四九歳から五〇歳（１７９１〜９２）の間のこととして記される。二例を挙げたが、このほか有力者への接触は�ｹの郷里である安徽省各地をはじめとして、鎮江・楊州・南京・北京などの各地の名士に及んでいる。こうした事実から�ｹ自身は任官を望んでいたのであって、けっして隠士となることを人生の理想として希求したのではない。�ｹの場合、親族に政治・学問における有力者がなく、生家にも科挙応試のための余財がなかったという事情のために、名勝を遍歴し山中にあって自然を楽しむ理想は実現されたが、現世にあって官僚となり名誉と蓄財を得ることは叶わず、その生涯を終えたとき結果として刻印と書が、�ｹとその一家の生計を支えたことになった訳である。�ｹの印譜にある『富貴功名総如夢』印�Jは、計らずも�ｹの生涯を象徴した語句となった。

　�ｹ作品にみえる文学の展開については、―�ｹ石如　隷書冊頁『詩経』大雅抑篇について―第一〇章において論じた。
１、経学に関する作品（関連作品四件）
２、古典文学に関する作品（同五件）
３、逸文に関する作品（同四件）
４、逸史の伝記に関する作品（同二件）
５、鑑戒に関する作品（同八件）
６、仏教に関する作品（同一件）
以上を�ｹ書作品からみた内容傾向として挙げ、それを裏付ける作品二四件を紹介した。これはのちに井垣清明氏から道教に関する作品があるとの教示を得たことから、
７、道教に関する作品
を加える。本稿は�ｹの三十歳代後半から四六歳までにおける文学内容の解明を目的とするので、ここでの詳述は略すことにする。

�@梅鏐（生卒不詳）字は既美、号は石居。安徽省宣城の人。梅穀成（康煕の進士、官は左都御史）の子。文字学に通じる。（高畑常信『�ｹ石如の書と篆刻』）
�A畢夢熊、本稿２・�U注�@参照
�B葉天賜（生卒不詳）字は孔章、号は詠亭。もと安徽省歙県の人、のちに江都（江蘇省揚州）に移籍する。（『広陵詩事』『揚州画舫録』）
�C張恵言（１７６１―１８０２）初名は一鳴、字は皋文。江蘇省武進の人。嘉慶四年（１７９９）の進士。官は庶吉士。（『芸苑随筆』『清朝書画家筆録』『昭代尺牘小伝』）
�D羅聘（１７３３―１７９９）字は遯夫、号は両峯。江蘇省揚州の人。金農に師事し画をよくする、揚州八怪の一人。（『墨香居画識』『安徽通誌』『桐陰論画』『墨林今話』）
�E梁巘（生卒不詳）字は聞山、号は松斎。安徽省亳州の人。乾隆二七年（１７６２）の挙人、官は四川巴東知県。著に『評書帖』『論書筆記』がある。（『昭代尺牘小伝』『揚州画訪録』『益州書画録補遺』）
�F曹文埴（？―１７９８）字は近薇、号は竹虚。安徽省歙県の人。乾隆二五年（１７６０）の進士、官は戸部尚書に至る。（『清史稿』『国朝耆献類徴』）
�G金榜（生卒不詳）字は輔之、号は檠斎。安徽省歙県の人。乾隆の進士、官は修撰。永江に師事する。著に『禮箋』がある。（『中国人名大辞典』）
�H包世臣（１７７５―１８５５）字は誠伯、号は慎伯・倦翁。安徽省��県の人。嘉慶一三年（１８０８）の挙人、官は江西新喩知県。�ｹ石如に師事する。著に『芸舟双楫』『国朝書品』『安呉四種』がある。（『広印人伝』『安呉四種叙録』）
�I畢沅（１７３０―１７９７）字は纕蘅（湘蘅）また秋帆、号は霊巌山人。江蘇省鎮洋の人。乾隆二五年（１７６０）の進士、官は湖広総督に至る。著に『河間書駕録』『両浙金石誌』『霊巌山人集』『経訓堂法帖』がある。（『清画録』『呉門画史』『清人学者象伝』）
�J中国篆刻叢刊『�ｹ石如』２２（二玄社　１９８４）所収。　


おわりに
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　先年、―�ｹ石如　行書『詩稿冊』について―を執筆した際に、�ｹ詩の文学における検討は稿を改める旨を書いた。じつは平成一三年夏より半年をかけて行書『詩稿冊』について調査研究を進めるとともに、『詩稿冊』中にある二一題三六首のすべてについての語句の出典についての調査も、ひと夏全部を費やして終えていた。三旬をひたすら、『大漢和辞典』一二巻と索引を相手にしていたのである。ところが本文を執筆した段階で、研究所からの論文指定枚数一五頁をはるかに超えて三五頁になってしまった。とても文学の検討である訓読・語釈・意訳・詩の背景となる古典の引用などは更に多数の頁を必要とするとこは自明であったので、そこでは止むを得ず断念することにした。今回その内の二首のみではあったが、こうして執筆の機会を得たことは幸いである。
　�ｹ五〇歳の『詩稿冊』の公開は、�ｹ文学研究とくに詩については格段の資料となった。こうした�ｹ真蹟による詩集があることは、一切の資料に記載されなかったことで、�ｹ研究者には一驚の出来事であった。
　明年、平成一七年（２００５）は�ｹ石如没後二百年にあたる。小稿掲載の『大東書道研究』第一二号の刊行と期を一にすることは、偶然とはいえ金石墨縁の巡り合わせの幸いであろうか。稿者は文学研究を専門にするものではないが�ｹ文学研究の必要への思いは一入で、あえて誤りを虞れず勇を鼓して論述した。この小稿が契機となって、�ｹ詩研究の第一足となれば幸いである。

　小稿は、先学研究を基として執筆いたしました。また、もとより稿者は管見であり、小稿中の誤謬不備に対しましては、忌憚の無いご指摘ならびに識者のご教示をお願い申し上げます。
（平成十七年十月四日稿）

　追記―小稿全般にわたる詳細な原稿校正の労を�ｹ石如研究の新鋭である大桑伸夫氏に頂いた、誌して深甚なる謝意を表したい。


―参考文献―
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（中文）
・『中国人名大辞典』　臧励和　（１９２１）　商務印書館
・『中国古今地名大辞典』　臧励和　（１９３１）　商務印書館
・『中国文化界人物総鑑』　橋川時雄　（１９４０）　中華法令編印館
・『�ｹ石如書法選集』　（１９６３）　文物出版社　―秋山書店　昭和五二年（１９７７）　覆製―
・『清代碑伝文通検』　陳乃乾　（１９５９）　北京中華書局出版
・『�ｹ石如印譜』博雅斎
・『歴代人物年里碑伝綜表』　（１９７６）　中華書局香港分局
・『中国美術家人名辞典』　兪剣華　（１９８１）　上海人民美術出版社
・『書林藻鑑』　馬宗霍　（１９８４）　文物出版社
・中国古代美術資料叢書『�ｹ石如研究資料』　穆孝天・許佳瓊　（１９８８）　人民美術出版社
・『�ｹ石如印譜』　（１９９０）　武漢古籍書店

（日文）
・『書道藝術』１０　（１９７６）　中央公論社
・『中国書論大系』１５　（１９８３）　二玄社
・中国篆刻叢刊『�ｹ石如』２２　小林斗盦　（１９８４）　二玄社
・『�ｹ石如の書と篆刻』　高畑常信　（１９８８）　木耳社
・『�ｹ石如の遊印』　高畑常信　（１９８８）　木耳社　
・『完白山人詩文』　西川寧　（『西川寧著作集』第九巻　１９９２　二玄社　所収）
・『陳鴻寿の書法』　（１９９７）　二玄社
・『大東書道研究』７　（１９９９）　大東文化大学書道研究所
・『駒沢女子大学研究紀要』６　（１９９９）　駒沢女子大学
・『大東書道研究』８　（２０００）　大東文化大学書道研究所
・『大東書道研究』１０　（２００２）　大東文化大学書道研究所
・『中国書法名品展』図録　（２０００）　謙慎書道会
・『中国書画名品展』図録　（２００１）　謙慎書道会
・『何紹基展』図録　（２００４）　産経新聞社

２００５年３月稿（５月１７日録）



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