�ｹ石如研究の案内


〈�ｹ石如の人物像〉
　収集した作品図版は、すべて�ｹ石如の軌跡である。それは書家としての作品の姿としてよりも、�ｹ石如自身の生きてきた姿のように思える。�ｹ石如は１７４３年（乾隆８年）に中国の安徽省（懐寧県）に生れた。はじめ名前を琰、字を石如といったが、１７９６年（嘉慶元年）に嘉慶帝が即位すると、帝の名前の顒琰を敬避して、字としていた石如を名前にあらため、あたらしく字を頑伯とした。また完白山人と号したので、�ｹ石如よりも�ｹ完白や完白山人のほうがひろく人口に膾炙しているようである。これとは別に自分自身を「笈遊道人」とも称している。笈遊道人とは文字どおり「笈」を背負って山々をめぐり遊ぶ人の意味で、「笈」とは書物などを入れて背負うための竹製の箱のことである。(本ＨＰ・�ｹ石如年譜　参照）
　�ｹ石如の肖像は何種類かが存在する。羅聘（１７３３〜１７９９）『完白山人登岱圖』、黄景峰・閻竹賓『完白山人放鶴圖』（１８０３制作）、呉文澂『載鶴圖』（１８０４？制作）、湯禄名『完白先生小像』（１８６４制作）などがある。とくにこの中でも安徽省博物館に所蔵されている黄景峰・閻竹賓『完白山人放鶴圖』は、１９９１年（平成３年）に我国で初公開された東急百貨店東横店（東京、渋谷）での『安徽省博物館　�ｹ完白の書法とその系譜展』において�ｹ石如作品とともに陳列され、その全体が知られることとなったものである。
　黄景峰・閻竹賓によって描かれた『完白山人放鶴圖』のなかの�ｹ石如（本ＨＰ表紙・右図版）の姿は、美髯をたくわえ偉丈夫と伝えられるとおりのものであった。ゆったりとした無位無冠の象徴である布衣にその身をつつみ、釣竿を持ち童児をしたがえて遠くの一羽の鶴と呼応する四幅の紙面は、鑑賞者にたいして迫りくるような緊張を与え、さらには孤高なる精神をも表出していた。

〈作品における款識の重要性〉
　東洋文化のなかでも特に中国における絵画・書法・篆刻には、その作品がつくられた事情や経緯を書き込んだり、刻り込んだりしているものが多数存在する。これらの文章を「款識」、「款文」または「落款」と呼び、この款識を読み理解することが中国における絵画・書法・篆刻の作品鑑賞であると言って良いだろう。
　款識は、作者の署名や押款がもっとも基本的な単位であるが、これに制作年や場所、題名、為書き（誰の為に書いたか）、作品の説明（制作理由・制作方法・制作状況など）などを適宜くわえ、作品にたいして一層の興味や関心を惹起させるものであり、作品そのものの鑑賞は勿論のことだが款識を読み理解することは、作品鑑賞の醍醐味であるとも言われる。署名や押款は、その作品の制作者を明らかにし、押款はその作品の証明である。制作年は、制作者の年齢、制作者の状況、当時の世相を暗示する。場所は、制作者の行動の足跡である。題名・為書き・作品の説明は、作品には表れることのない制作者と作品の関係である。
　このように作品における款識は、重要かつ作品を理解するうえで欠くことのできないものである。

〈�ｹ石如作品における款識〉
琰 　もっとも初期の�ｹ石如３６歳の篆刻作品であるが、これには「この二印（『太羹玄酒』『聊浮遊以逍遥』）、六月（６カ月のあいだ）濡須に客して作す。」（�ｂR６―１　参照）とある。濡須は、安徽省巣県にあたる。
　また、４６歳の書法作品には「戊申（１７８８）九秋、古浣琰、維揚の寓廬に書す。」（�ｂS６―１　参照）とある。維揚は、江蘇省江都県にあたる。
　また、５０歳の書法作品には「黄鶴樓に登る。畢制府の韻に和す。壬子（１７９２）嘉平（１２月）、龍山樵舎に於いて、呵凍して脱稿す。古浣石如、�ｹ琰。」（�ｂT０―１　参照）とある。黄鶴樓は、湖北省武昌県にある。
　また、５６歳の書法作品には「戊午（１７９８）初冬、人とともに峻爽樓に登り晩眺するの作。頑伯、�ｹ石如。」（�ｂT６２　参照）とある。峻爽樓は、所在未詳。
　また、最晩年の６３歳の書法作品には「嘉慶十年（１８０５）歳在は乙丑、六月六日。完白山民、�ｹ石如敬書。皖口の裁雲補納の廬の紫竹山林の中。」（�ｂU３―６　参照）とある。皖口は、安徽省懐寧県にあたる。このように諸国を旅し、名勝をめぐり名山に登り、過客となる生涯を送った。いわゆる笈遊道人そのものであり、作品の款識や評伝における�ｹ石如の姿は、人生そのものが笈遊の人生と言える。　またこれらの款識は、その時々の�ｹ石如は人や物との出合いをとおして歓喜や懐旧などの心情をも吐露しているのである。例えば�ｹ石如３９歳（１７８１）の篆刻作品には『意與古會』があるが、この印の款識には畢蘭泉という人物との交流が書かれている。「……去冬、邗上で畢蘭泉と会う。その時、余の篆石を見てこれを欲す。余おしみて与えず。怏々として去る。……『瘞鶴銘』は冠して古今の傑なり。余、蕉山に遊びし時、睇視することまことに久し。いまだその搨本を（拓本）獲ず。怏々として歸る。秋初、蘭泉邗を過ぎるに余を訪う。余かすかにその意（『瘞鶴銘』のこと）を露にす。ついに家蔵の舊搨（『瘞鶴銘』）をもって余に贈らる。ここに急ぎてこの印（『意與古會』）を刻して、これに謝す。蘭泉の喜び知るべし。余の喜びもまた知るべきなり。……互いのあい怏々して、今ともに欣々なり。没するべからざるなり。ゆえにこれを石に志して云う。乾隆、歳は辛丑、八月。古浣子、�ｹ琰ならびに識す。広陵の寒香僧舎に於いて。」（�ｂR９―４　参照）とある。『瘞鶴銘』の拓本を得た�ｹ石如の歓喜の心情が吐露され畢蘭泉との交遊が記されている。畢蘭泉については詳しい生卒が不明であるが、ほぼ�ｹ石如と同時期に活躍して乾隆・嘉慶期（１７３６〜１８１９）の頃の人物である。　また、５１歳の書法作品には「癸丑（１７９３）の歳、春雨兼春。たまたま友人の案頭に牡丹の數花を獲賭す。にわかに長句を賦して喜びを誌す。書して雲駒二兄先生にしめす、これを正せ。石如、�ｹ琰、楚游して草す。」（�ｂT１１　参照）とある。牡丹を愛して、詩を作る心の豊かさ。
　また、晩年の６２歳の書法作品には｢嘉慶甲子（１８０４）夏。興嚴の佛廬に寓す。靈隱の見初禪友に遇う。ここに行游し、往来すること旬月。その行を見るに、脩潔を持す。すこぶる書學に志し、永禪師の風あり。よって樂しみてこれと遊ぶ。今、虎林に歸らんとすれば、この十字を書して、もってその行に贈る。完白山民、�ｹ石如。」（�ｂU２―５　参照）とある。別れにあったて書作して贈る見初禪友との交遊。いずれも、たんなる作品の制作者ではない、生活であり人生そのものが刻印と書作による生涯は、終生官途に就くことがなかった生涯一布衣の生き様である。
　人物交流は、多くの作品に残されている。初期の３８歳の篆刻作品においても「……第五鏐、古皖�ｹ琰に篆を請う。乾隆庚子（１７８０）夏。」（�ｂR８―１　参照）とある。第五鏐は梅鏐のこと、生卒未詳。　また、４６歳の篆刻作品には「戊申（１７８８）初冬、兩峯子の爲に、漢に倣う。古浣子、�ｹ琰。」（�ｂS６―５　参照）とある。兩峯子は、羅聘（１７３３〜１７９９）のこと。揚州八怪の一人。
　また、５７歳の書法作品には「僧廬に寂座して、たまたま韓山朱公の『座右編』を檢す。數十条を録し四體書を作す。持して肯園太老先生に請う、これを教えよ。完白山人、�ｹ石如。」（�ｂT７―２　参照）とある。肯園太老先生は、未詳。
　また、６２歳の書法作品には「嘉慶甲子（１８０３）、蒲節後一日。書して仲甫先生に奉る。教畫せよ。完白山民、�ｹ石如。」（�ｂU２―３　参照）とある。仲甫先生は、左輔のこと、生卒未詳。人物交流の中で、人名が判明しているにもかかわらず未詳の場合があるが、�ｹ石如の交遊関係を知るうえで欠くことのできないものであり、今後の検討課題である。
　作品の款識は、こうした�ｹ石如の足跡をたどる上で、同時期に活躍した人物による伝記資料よりも�ｹ石如自身による第一級の内容を持つことから、作品資料は必ず款識を釈読し、これをそれぞれの作品に付した。しかしながら、ときおり�ｹ石如独特のスタイルを持つ草書体を交え、図版も小さいことなどから款識の釈読も難航したところもあることも事実であるが、すべての作品に一応の釈読を付した。「�ｹ石如（有紀年）作品目録」遠藤昌弘（『大東書道研究』第７号　大東文化大学書道研究所所収　１９９９．３）において生涯の制作年の判明している全作品について款識を詳記したので参照されたい。また制作年の判明している作品は本ＨＰ�ｹ石如年譜に、款識の内容の概略を制作年にしたがって付し評伝の内容を補ったので参照されたい。

〈�ｹ石如の作品における款印の重要性〉
　�ｹ石如は篆刻によって生計を建てたことがその評伝によって知られる。（第四章、�ｹ石如年譜　参照）このことは、�ｹ石如の初期作品が篆刻によって占められることでも裏付けられる。（第一章、書法篆刻作品　参照）　また、篆刻作品は、『完白山人印譜』（西泠印社）、『�ｹ石如印存』（有正書局）、『完白山人篆刻偶存』（陳以和）、『完白山民刻印』（葛昌楹）、『�ｹ印存眞』などの印譜に見ることができるが、この中の『完白山人篆刻偶存』（陳以和）、『完白山民刻印』（葛昌楹）、『�ｹ印存眞』は希購本中の希購本であった。しかし幸いなことに１９８４年に出版された『中国篆刻叢刊』第二十二巻（二玄社 昭和５９年 小林斗盦編）にはこれらのすべてが網羅さている。
　この『中国篆刻叢刊』第二十二巻には�ｹ石如刻印２３０余件が掲載されている が、このうち制作年の判明しているものは２５件に過ぎず、２００件以上について印影は 確認できるものの制作年が判明しないものである。これはいかに平常から刻印を多くしていたか、また、作例の多さは売印の証拠とも言え、生活の手段であるとも言えよう。
　このことは評伝を裏付けるように�ｹ石如の活動は売印にはじまり、書よりも刻印が先行する。�ｹ石如にとって印は書作品とともに、作品中の印の使用には注目すべきものがある。とくに制作年ごとに使用する印に傾向があり、このことは、「�ｹ石如書作品における款印と使用時期の変遷について」遠藤昌弘（『大東書道研究』第８号　大東文化大学書道研究所所収　２０００．３）で執筆した訳であるが、作品資料から印文を探り、印譜と照合することは最初の基礎作業となった。また印は朱色のため写真製版や複写することにより印影が不鮮明であったり、場合によっては消えてしまうことがあるので、印譜と照合した結果は、すべての作品図版に印譜の印影を貼り付けて、資料が混乱することを防ぐ作業を行なって基礎資料とした。



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